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平井山ノ上付城登城日:(2010.12.31) 所在地: 三木市平井 |
歴史 |
平井山ノ上付城は、『播州御征伐之事』によれば天正六年(1578)7月に織田信忠が神吉城を攻略後に平井山の尾根上に築城したのが始まりとされる。8月に羽柴秀吉が入った後に、津田宗久を招いての茶会が開催された場所でもある。いつまで利用されたのかは不明だが、現在も『諸国古城之図』に見られるような縄張りがそのまま見て取れる状態のは素晴らしい。
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資料 |
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私見 |
以前から三木合戦の際の「秀吉の本陣跡」の碑がたっている場所は間違っていると言われ、少なくとも平成十三年の三木市遺跡分布図内にはその存在が書かれていた平井山ノ上付城。平井集落の東にある竹中半兵衛のお墓(有名なほう)から見てぶどう園へと進んでいった南の尾根上に築城されていました。「本陣跡」の場所は実際に本陣としては狭すぎるのですが、こちらは大きさとしても十分ですね。数年前から何度か行っていたのですが、当サイトにはなかなか更新せずにさぼってました(^^;。 それにしても何故だか少し前から半兵衛のお墓付近から道路が封鎖されてしまって、立ち入ることができなくなっています。なにがあったのでしょうか。 しかし城跡には行けますのでご安心を。与呂木の新興住宅街の中に入り、坂道を登り切った一番奥に登城道がつけられています。周囲に迷惑のかからないような場所に駐車をするとあとは簡単。上まであがると給水槽が設置されていますので周囲は改変されていますが、いつのものなのか削平地は見られます。そしてここから東へまっすぐ尾根筋を進めばいいだけ。そしてこの尾根道は、太閤道として知られるルートでもあります。今まで何度もブドウ園側から登っていましたが、こちらはほぼ平行移動で済んでしまいますし、何よりこっちが本筋だったのかと今更ながら知ったのは衝撃的でした(^^;。 城に到達するまでの途中で2か所ほどオーバーハングするほど滑落している場所がありますので非常に危険です。しかしその先の城域は非常に広大で、各方面の尾根筋へひな壇状に郭がつくられています。一番わかりやすいのは南へ膨らんだ郭が土塁を持っているところです。『諸国古城之図』に見られる”陣當”がちょうど南西へ延びる枝尾根でしょうか。そしてすぐ東には三角形の主郭があり櫓台状の高まりがあります。虎口が私にはわかりにくかったのですが東西の虎口も特徴として注目すべき点のようです。何よりも北側に広がるひな壇状の郭群は圧巻です。多くの兵が待機させることができそうですね。 確かに『諸国古城之図』と照らし合わせて考えるとそのまま適合できることはわかるのですが、全体として藪化していますし、他の陣城と比較すると土塁も明瞭でなく、わかりにくい一面もありますね。なにより写真が撮りにくいのがつらい・・。一体この附近に「本陣跡」の碑がつけられることがあるのでしょうかねぇ。そこでふと気づきました!半兵衛のお墓付近に設置された道路封鎖ですが、『諸国古城之図』にも似たようなものがあるじゃないですか。これはきっと復元の一環なのですね(^^;。 少々冗談がすぎたようですね、反省。道路を封鎖するゲートは近年ぶどう園にゴミの不法投棄があったために対策としてとられたものだそうです。昼間は開いてるので、安心して入っていいようです(^^)。知らないと私有地だから侵入できないようにしているのかな?とか思ってしまいますよね。でも私有地かどうかは別にしてゴミの投棄は論外です。地元の方や地権者の方に感謝しながらありがたく散策させていただきましょうね。どうやら国の指定史跡となったことを機にこの平井山ノ上付城の整備が進むようです。楽しみにしてましょう。
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