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叶堂城跡 登城日:(2004.07.19) 所在地: 三原郡西淡町松帆古津路叶堂 |
歴史 |
叶堂城は慶長五年(1600)豊臣氏の代官石川紀伊守光之によって志知城に代わる水軍基地として築城され。 城域は三原川より堀岸に至る南北約百五十メートル、東西約二百メートルにおよび、標高約10メートル、基底約二千二百平方メートルの地山があり、その南西部に穴太積みと呼ばれる慶長期の石垣が約四十メートルにわたり築造されていた。 石川氏は築城に際し、台上の観音堂を北の松原に移したと伝えられるが、築城後間もなく関が原の戦いが起り、石川氏は西軍に参加して敗れ、この城も廃された。その後元和七年(1621)城跡に感応寺が再建された。 しかし昭和五十九年(1984)三原川拡幅工事のため感応寺は約三百メートル東方に移転し、城跡の遺構は惜しくも消滅の止むなきに至った。 今ここに城跡碑を建立し永く後世に伝える次第である。 『叶堂城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
叶堂城跡は、大日川、三原川、倭交川など多くの川が集まる湊港を押さえた形となった拠点に位置していたことから、当時の海運の要であったことでしょうね。感応寺境内にある穴太積みの石垣は志知城のものを転用したと言われています。 またその感応寺を南側に回りこむと高い石垣が組まれており、その威風堂々たる姿には圧倒されます。周りには川が巡っていますので現在の姿でも十分城の雰囲気を漂わせているのですが、この姿は昭和に移築されたんだとか・・。かなり城跡を意識して作られてるんでしょうね(^^; さて同寺から見て、「叶堂」の信号を越えたところには城址碑と案内板が置かれています。ここにあったんだとすると、戦いの為というよりは水運を中心とした経済基盤の為のお城といった性格が一層浮き彫りになっている印象を受けますね。
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