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奥谷城跡
登城日:(2004.05.05)
所在地: 篠山市殿町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
奥谷(蕪丸)城大手口  室町時代中期、波多野清秀が石見国(島根県)から上京して、室町幕府の管領、細川勝元に仕え、応仁の乱に際して各地で軍功をあげ、細川政元の時に多紀郡を与えられた。
 清秀の子稙通の代になって、永正年間(1504〜21)に八上奥谷に蕪丸城を構え、続いて浅路山(高城山)に八上城を築いたと考えられる。
 その後、波多野氏は元秀・秀忠・晴道・秀治と続き主として八上城を本城として活躍し、蕪丸城はその根城的な役割を持ち、奥谷城とも呼ばれるようになった。
奥谷城の急な登城道  蕪丸城は浅路山(標高459メートル)から南へ派生した尾根の先端、東西150メートル、南北200メートルの範囲の頂上部が詰城で西斜面を造成して館を造り、堀切、縦堀、館背後の水場施設などの城郭遺構が良く残っている。
 平成八年二月〜三月にかけて道路改良工事に伴う発掘調査の結果、蕪丸城跡の大手虎口付近で幅10メートルの水濠遺構が発見されたことから、八上城側の堀切と東仙寺川さらに人工的な水濠によって城郭の防御が固められていた状況が明らかになった。

『奥谷城跡案内板』より

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資料
 

私見
今は埋め戻されてますが、水濠跡  八上城がある高城山西方の尾根先端部に位置するところにあった蕪丸(奥谷城とも)城にやってきました。ここは波多野氏が八上城を築城する前に居城していたところです。
 ってことは現地で知ったのですが(笑)、マイナー城跡路線をさまよっているところでここに到達しました。予想外にもまだ新しい案内板があり思わぬ収穫でした。
 城跡は、案内板がある西南部が大手口のようですが、その前の道路と民家との間には水濠があったことが案内板の写真でわかります。
 頂上部への登城は急な斜面をまっすぐにあがっていきます。ほんとに急なので少しでも滑ったら下まで一気に落ちてしまいそうです。落ち着いて1歩1歩進んでいき、平坦な地点に着いたところは帯曲輪のようです。頂上はその4〜5メートル上の削平地にありました。八上城だけがフォーカスされて見落とされそうですが、ここも実に分かりやすい状態にありますので一見の価値あり、ですよ。
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