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淡河城跡登城日:(2003.03.08→2012.03.10) 所在地: 神戸市北区淡河町淡河 |
歴史 |
淡河城の創築は承久四年淡河に在る地頭職に補任された北条右近将監成正が築き後、淡河氏と称し土地の豪族として連綿と続いた。弘安の比叡尊上人に帰依し右の再興を成し庄内の山林を殺生禁断の地と定めた。亦た正応二年一遍上人寂後、時宗の再興に尽力し創宗の基を築いた。南北朝の頃淡河氏は南朝に加担し為に再三北朝軍が来襲し城を囲んだ。其の後は赤松氏の旗下となり摂播国境守備の任を帯ぶ。
嘉吉の乱に来政せる山名軍に降り事無きを得た。応任以降は赤松再興にその築源となり後、三木城主別所氏の旗下に属す。天文二十三年三好氏三木城を攻む時、当城へも来攻、落城したが永禄元年旧に復した。天正六年二月別所長治、織田信長に叛き為に羽柴秀吉三木城に迫る。 同七年四月織田軍淡河城の四方に付城を築き対陣す。城主淡河弾正忠定範同六月二十七日敵陣に牝馬を放ち羽柴秀長を敗走せしめ大勝を得る後、三木城に入る。以降当城は有馬刑部郷法印則頼の居城となり三千二百石を領す。後山崎合戦、長久手合戦の功により一万五千石を増封せらる、然るに慶長五年九月関ヶ原合戦が起こるや有馬氏東軍に加担し同十月戦功に依り有馬郡三田城に二万石を賜ひ移封するに及び、同六年正月以降廃城となる元和元年濠及び土塁を壊す。 淡河の里を眼下(比高差約20m)に一望できる河岸段丘上端に築かれたこの城は、淡河氏代々の居城でしたが、天正6〜8年(1578〜1580)羽柴秀吉による三木城(別所氏)攻めの後は、有馬氏一万五千石の居城として慶長六年(1601)まで、淡河と共に栄えてきました。 城の遺構は現在、本丸と天守台、堀を残すだけとなっています。幅15m、深さ3〜5mの堀に囲まれ、本丸の南辺に東西50m、南北8〜16mの天守台を配する構えは、当時の面影を残しています。また、本丸の南東には竹慶寺跡があり、境内には城主淡河氏代々の墓碑があります。 『淡河城跡案内板』より
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資料 |
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年表:
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私見 |
淡河城は神戸市北区淡河町にあり、三田三木線の道路脇南側にある小高い山の頂上に本丸跡が残されています。回りはほとんどが畑となっており、本丸跡は稲荷神社としてかろうじて残っている感じです。しかしその本丸のまわりには内堀跡がありその辺りがかつて城であったことをはっきりと物語っていました。 そしてそのすぐ南側には竹慶寺跡があり、矢狭間がいくつかある白塀が作られています。その中には淡河氏の墓石が。合掌・・ 三木、別所長治の有力武将として活躍した淡河定範もこの辺りの城主同様、羽柴秀吉に弓を引き、三木城と運命を共にした武将の一人です。攻め寄せる羽柴秀長の軍に対して牝馬を放して混乱させ、そこに打って出るなんて中国の古典を聞いているような活躍ぶりが伝承として残っています。さらに敵が混乱して退却するのを見るやいなや自城に火を放ち、早々に三木城に退去してしまうといった、気持ちのいい戦をやってくれる男がこんな近所にいたことは全然知りませんでした。やはり三木合戦に関する物語はもっともっと突っ込んで調べていくと、面白くなってきますね。 久々に淡河城跡を訪れました。一番目をひいたのは城跡東側の断崖が丸見えになるよう藪が取り除かれ、その急な傾斜と大きな堀跡が確認できることでした。一番の見どころが大変見やすくなって、城跡らしい趣きが出てきてますね!しかしそれはいいのですが、なぜか不思議な二階建ての黒塗りの建物が崖の脇に建てられています。これってなんでしょうねぇ・・? さて、車で西側の坂道をのぼりつめ、本丸そばにやってきました。今でも水を有する堀跡はやはりこちら側も藪が取り除かれており、その大きな堀が美しく、しかし訪れる者を阻むかのように見えます。そして堀のなかには1本畝のような仕切りもよく見えていますね。これが天守台と二の丸への通路だった名残だったのでしょうか。でもちょっと細すぎるから単に畝だったのかもしれませんねぇ・・。 綺麗に藪が取り除かれ、また立派な案内板も設置され見事に城跡を整備してくれたことは素晴らしいことです。が、不思議な二階隅櫓(?)が謎です・・・案内板にもそんなもの載ってないし(笑)。あとで聞いた話だと、この模擬櫓風な建物は、整備工事が進められていく時に休憩所として建築されました。なんでも「遺構を壊さない」という約束で建てられたんだとか。建築時には細やかな配慮をしつつ建てられたのでしょうね。そう思うとこの新しい建物にも歴史アリ、なのですね。
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