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守谷城跡
登城日:(2002.07.06)
所在地: 守谷市守谷
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 守谷城址碑  守谷城は守谷市(城内地区)と、平台山と称する島状の台地とを併せて呼ばれている。鎌倉時代の初期に平台山に初めて城館が構築されたが、戦国時代になると戦闘様式等の進展に伴って城は現在の守谷小学校(本郭のあった所)周辺に増築、移転した。
 平台山に最初に築造された城のことを守谷本城とも呼ばれている。この守谷本城は鎌倉時代になって、平将門の叔父に当る平良文の子孫、相馬師常によって築城されたもので、素朴な鎌倉様式を残した名城である。師常は源頼朝の旗上げに最先かけて参陣し頼朝の重臣として幕政に参画し、その功によって相馬郡の他に結城・猿島・豊田(一部)の諸郡を拝領し、更には奥州相馬の地をも賜ったのであるが、守谷本城はそれらの領地を統轄する本城としての役割を演じたものである。
 本城の面積約二一、二五四平方メートルで、それを三郭に分割し、各郭は大規模な土塁、堀等によって区画され、その堀には満々たる水が入り込み船着場も残されている。なおその三郭には妙見社も建てられ、相馬郡馬追いの行事はその社前で実施されたといわれている。
 なお、本城は戦国期になって本拠を現在の城内の地に遷したが、その後は守谷城の出城として使用されていたようである。

 本城は戦国時代を迎えると城内の地にその拠点を移動したが、そのことは城内第六郭の発掘調査によって判明した。この調査によってこの城は十五世紀より十六世紀全般に亘ってその機能を発揮した城で、ここから戦国期の建造物(宿舎・事務所・倉庫・馬舎)二十六棟が発掘され、それに付属して井戸・堀・食料貯蔵庫・墓拡・製鉄加工所等が検出され、多くの貴重な遺物が出土した。
 なお、左図面によってみると、小貝川より入る一大水系は満々たる水をを湛えて城域を囲み、更にはその城域の極めて広大なこと、築城技術の入念なこと、それは天下の名城としての様相が偲ばれるのである。永禄九年(1566)城主相馬治胤がこの城を古川公方に提供し関東の拠点となすべく計画を進めたのもこの城であった。
 この城は北条氏の勢力下にあったので、小田原落城後豊臣秀吉軍の進攻により廃城となった。

『守谷城跡案内板』より

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資料  

私見 守谷城址碑横に連なる土塁跡  高井城から約10分ほどバイクで国道294号線を走って、守谷市にはいったところに位置する守谷城跡は宅地内に埋没した平城としては意外にも見事にその存在感を残していました。
 訪城するには守谷小学校を目指せばいいのでかなり簡単だと思います。校門前を横切る道路により見事に分断されてしまってはいますが、道路向かいには約二メートル弱の土塁が数メートルの長さで続いています。そこに案内板と城址碑がつくられてあって、非常に嬉しい状態です。案内板にある守谷城の領域図を見ていますと守谷市内のかなりの広範囲にわたって、城がつくられていたようです。ま、ほとんどが時代の変遷のなかに消滅してしまっているんでしょうが、学校の前に残る土塁だけは大事に残していってもらいたいものです。
 しかし・・小学生が毎日上を歩いていたのかすっかり自然と土塁に歩道のような小道ができてしまっていましたが、この程度は仕方ないでしょうねぇ。
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