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逆井城

逆井城跡


登城日:(2009.05.30)
所在地: 坂東市逆井、逆井城跡公園
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
逆井城の堀跡。土塁は船入り遺構らしいです 逆井城の二階櫓 ◆逆井城の歴史
 逆井城は、飯沼に臨む標高20メートルの台地先端にあり、城の北川は飯沼が洗い、西側は入江の蓮沼に接していました。飯沼は江戸時代の新田開発により湖水はなくなりましたが、およそ幅1キロメートル、南北30キロメートルにわたり、その名残を残しています。今から約410年前の戦国時代に、この飯沼が小田原の後北条氏と佐竹氏・結城氏・多賀谷氏らの領国の境目でした。
 進攻を続ける後北条氏は飯沼に築城をはじめ、天正五年(1557)十月、北条氏繁(玉縄城主)は、藤沢より城の建物をつくるため大鋸引の職人をよんでいます。城主となった氏繁は、盛んに佐竹・下妻方面の動勢を報告していますが、翌天正六年(1558)にこの飯沼城中で没し、その後氏舜が城代となりました。
 天正十八年、豊臣秀吉は小田原城に後北条氏を滅し、この飯沼城も廃城となりました。

◆二階櫓
 この二階櫓は、戦国時代末期の時代背景を基に、外観二層の容姿をもつ戦国期の櫓を復元したものです。近世の隅櫓ではない時代を感じる櫓として、6メートル四方の平面を持ち、入母屋の望楼に下見板張り等の外壁によって当時の景観を再現しています。
二階櫓付近の状況 登ると微妙に揺れて怖い井楼矢倉 ◆井楼矢倉
 井楼矢倉は米を蒸す蒸籠と同じように井形に組んだ方形材を次々と組み上げた矢倉です。
 井楼矢倉の役割は、
 @物見矢倉として敵の動勢を監視する。
 A味方の全軍の動勢を把握する。
 このような矢倉の役割が発展・大規模化したものが近世城郭の天守閣で、城主の威厳を誇示した政治的役割が加味されています。
 この井楼矢倉は戦国時代末期のものを復元したものです。
◆鐘堀池
 天文五年(1536)3月3日、ときの逆井城主逆井常繁は、北条氏康方の大道寺駿河守の城攻めに敗れ戦死しました。この時、城主の奥方(娘か)は先祖代々伝わる釣鐘をかぶってこの池に飛び込み、自殺したと言われています。この釣鐘を捜そうと何人もの人が池を掘ったため、「鐘堀池」とか「鐘堀井戸」と呼ばれています。
 この池はどんな旱でも水が枯れたことがないと言われるほど、湧水が豊かです。城の生活水を賄うために掘られたのではないかと考えられています。
主郭への木橋と櫓門 観音堂。これはここでいいのでしょうか? ◆櫓門と橋
 この櫓門と橋は逆井城跡の発掘調査の成果をもとに復元されています。
 橋の遺構は礎石・男柱・支柱の柱穴、柱桁支柱の穴がみつかっています。また、櫓門の遺構としては、東西に三個ずつ二列で方形に結べる柱穴と雨後溝がみつかっています。
 復元にあたっては遺構保存のため、旧柱位置より西へ1メートル、北へ50センチずらされています。なお形については、史料を基に戦国時代末期の姿を想定しています。
◆観音堂
 この観音堂は大安寺(岩井市)にあったものを町が譲り受け、移築・復元しました。
 天正十六年(1588)建立時の棟札と弘化二年(1845)再興時の棟札が現存しています。これにより、天正十六年の上棟後、幕末に改造の手が加えられたことが判明しています。しかし、木柄の大きな角柱の面取り、舟肘木などはいずれも天正期特有の様式を良く残していますので、非常に貴重な建築物として町指定の文化財となっています。
 堂内は板敷で、天井は棹縁天井となっています。

『逆井城跡案内板』より

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資料
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私見
郭内に入るための木橋 土塁も当時の雰囲気がよくわかります。  逆井城は、茨城県、栃木県、埼玉県、千葉県の県境が集まる坂東市逆井にありました。平城なのに非常に行きにくいのは最寄の駅が遠すぎるからなんですよね。しかし車で行くと駐車場やトイレもあり、よく整備された城跡公園となっており、また中世城郭を楽しめる非常にうれしい整備状況となっています。
 一番に目に飛び込んでくる二階櫓や井楼矢倉は戦国期末期のものを復元されたものです。手前にある水堀を含んだ構図は実に絵になりますね。中世城郭の場合、遺構がよく残っていても想像の中で往時の様子を再現しないといけないのですが、この逆井城は昔はどのように機能していたのかを大変わかりやすく見せてくれています。しかしいざ城域内に入ると城内はゲートボール場としても機能しており、見事に現代との融合を果たしているのには驚きです。ただ、ゴルフは禁止ですのでご注意を。
反対側の虎口にある木橋と土塁 折れを持つ比高二重土塁  しかしここは櫓だけじゃなく堀や土塁も見事ですね。興味がある方はとりあえず行ってみてください。ここは楽しいです、と強くお奨めします。私が特に惹かれたのは折れを持つ土塁が二重になっているところでしょうか。後北条系の遺構で見られる比高二重土塁というのですね。当時はもっと土塁が高く積み上げられていたとは思いますので今の状態で見るとピンとこないかもしれませんが、そこは想像を膨らませて楽しみましょう。
 主郭部のところ木橋を渡った先はまた違った雰囲気がただよい、なんとも言えない心地よさを感じさせてくれます。最初にも書きましたが、公共交通機関で訪れるには少々難がある場所ではありますが、中世城郭の姿をわかりやすく整備/復元してくれている貴重な公園です。
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