多賀谷城跡 登城日:(2003.05.05) 所在地: 下妻市大字本城町 |
歴史 |
多賀谷氏は、初代氏家が現在の多賀谷城跡公園の一郭に本丸を構え、隣国豪族を攻めてその勢力下に置くほか、小田原北条氏政勢の再三の来襲を撃退するなど七代にわたり百四十七年間下妻城主として常総地方に栄えていた。 慶長五年、関が原の戦いが起き七代重経は佐竹氏とともに西軍に心を寄せ徳川家康の再三の誘いにも出陣しなかった。この戦いで家康に憎まれ石田三成にくみした理由で、慶長六年(1601)二月、城主追放城破却となり当地を去った。城主追放のとき奥方始め姫奥女中達に行末を案じてある者は懐剣でのどを突き、ある者は館沼に身を投げた。 領民はこれを哀れみ遺体をかき集め三の丸の一画に合葬した。それが今に伝えらる美女塚である。 現在本丸跡にある多賀谷氏遺跡碑は旧主をしたう家臣子孫が明治二十三年十二月に建立したものである。 『多賀谷城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
多賀谷城は現在、多賀谷城跡公園になっているものの遺構はありません。本丸跡らしく土盛りされた上に石碑と案内板が置かれています。完全に現代に埋没した城跡の一つといっていいようですね。ですが、往時は周囲を沼が取り囲むなかなかの要害だった様子。実はよく注意して周囲を散策すればその雰囲気だけでも味わうことができるのでしょうか。 私はわかりませんでした・・
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