![]() |
![]() |
Check
![]() |
![]() |
金沢城跡登城日:(2002.10.14→2010.10.10) 所在地: 石川県金沢市丸の内 |
歴史 | ![]() ![]() ![]() 利家は、金沢城と改め、大がかりな整備に取りかかりました。天守閣の創建や、本丸周辺の石垣整備、大手口の付け替えなど、いずれも城の根幹に関わることであり、信長時代からの技術を受け継いだ職人集団が、金沢でもその技を発揮したと考えられています。 キリシタン大名としてよく知られ、茶人、また築城の名手として知られた高山右近が、秀吉に追放された後金沢に招かれており、右近が整備の指揮を執ったとも伝えられています。 ![]() ![]() ![]() 天正年間にはいると、一向一揆は全国各地で織田信長軍と凄惨な戦いを繰り広げました。加賀へは信長の命を受けた柴田勝家軍が進攻し、この「金沢御堂」は天正八年(1580)勝家の甥・佐久間盛政によって攻略されました。 佐久間盛政は、この地を「尾山城」と名づけ、一向一揆の反撃に備えて堀や土塁の整備を急がせたと伝えられています。金沢城で最大の「百間堀」もこの時に建設が始まったと考えられています。また、城下町金沢の原形とされる「尾山八町」がおかれたのもこのころでした。 ![]() ![]() ![]() 慶長七年(1602)10月晦日の落雷によって、天守閣が炎上し・焼失し、利家時代の象徴がなくなってしまいました。その後、現在に至るまで天守閣が再建されたことはなく、本丸には物見を兼ねた三階櫓と本丸御殿が建てられました。寛永八年(1631)の火災でも金沢城は被災し、翌年辰巳用水が整備されるとともに、城の機能の中心が本丸から二の丸へと移されていきました。二の丸御殿は、元禄年間(17世紀終わり頃)には「千畳敷」といわれるほどに広大な建物となり、藩主前田家の公館であり、加賀藩の中央政府として、重要な位置を占めるほどになっていきました。 宝暦九年(1759)の火災は、金沢城において大きな転機となりました。この火災で、城内はごく一部を除いて全焼し、三階櫓や本丸御殿、二の丸御殿などはすべて焼失しました。その後の復興では、特に実用性に主眼がおかれ、本丸の地は初期の歴史を語るための象徴以外その役目を終え、すべての機能が二の丸に集約されました。新丸にあった御細工所が城へ出されたのもこの時です。また、現存している石川門はこの火災の後、天明八年(1788)に再建されたものです。 さらに、文化五年(1808)の二の丸火災では、全焼した二の丸を再建する際、郷土ゆかりの絵師を起用したり、幕府からの補助金を断って領内からの寄付金を集めるなど、地元志向の強いものとなりました。二の丸御殿に表と裏の二つの能舞台が作られたのも、一部に二階建てが取り入れられてくるのも、この文化の再建によるものでした。 ![]() ![]() ![]() 第二次大戦後は大蔵省の所管となり、国立大学誘致運動の中で文部省に貸与され、昭和二十四年(1949)金沢大学が開学しました。 平成八年(1996)三月、金沢大学の移転に伴い、石川県が国からこの地を取得し、金沢城址公園として整備を進め現在に至っています。 ![]() ![]() 部分的にはらみだしが認められることから平成十五年に変位を観測する装置を設置し、石垣の定点観測を続けています。 ![]() ![]() ![]() ![]() さらに、石垣づくりの秘伝書、石を切り出した丁場、石引き道の存在など、石垣に関する歴史資料や環境がそなわっていることをあわせ、金沢城は「石垣の博物館」と呼ばれています。 ありし日の城の姿に思いをはせながら、金沢城の石垣をめぐってみてはいかがでしょうか。 ![]() ![]() 『金沢城跡案内板』より
|
資料 |
【地図を表示する】
|
私見 | ![]() ![]() 道沿いに南へと歩いていくと二段になった石垣が見えてきます。玉泉院丸鼠多門周辺の石垣です。ここは下の段が丸石で構成されていますね。また現在の尾山神社との間に木橋が掛けられていた跡も見てとれます。ここから尾山神社へ行ってしまい、利家やおまつの像をチェックすることが大事ですね。うーむ・・金沢城を堪能するのは1日がかりですよ。 ![]() ![]() さらに北上します。道路向かいは兼六園ですが、今回は時間の都合でいきません(笑)。しかし雪がある季節に訪れると有名な雪のツリーが拝めるのでしょうから一度は見てみたいです。もちろん石川門も雪が似合いますしね。 そんな石川門手前の石垣もちょっと面白い形をしていますね。台場に見られるような砲座のようにこんもりした山がいくつも続いています。これはいったいなんの為なのでしょうか。またこの下部にある石垣にはよく刻印が見られます。刻印が多く含まれる場所とそうじゃない場所とが明確に分かれているのも興味深いところです。その時代においてどのように積み上げていったのだろうかと想像が膨らみますね。 ![]() ![]() 2010年春に完成した、この門をもって金沢城の中心エリアである二の丸、三の丸が充実してきましたね。大手門からのルート上にある河北門、そして西側には五十間長屋、菱櫓。細かい造形を前にすると思わずシャッターを切ってしまいます。たまに城攻めをしていてファインダー越しにしか城を見ていなかったということがあります(笑)。注意しないといけませんね。 ![]() ![]() ![]()
|