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鳥越城跡登城日:(2011.08.22) 所在地: 白山市三坂町 |
歴史 | ![]() ![]() 手取・大日両川の合流点に位置する丘陵先端部を利用して築かれた天然の要害で標高は、主郭部で312メートルを測る。城跡の面積は、東西400メートル、南北120メートルにおよび、頂上部を中心とした七ヵ所の平坦地が主要な郭を構成する。 郭は、本丸・二の丸・三の丸・後二の丸・後三の丸などと名づけられ、空堀や土塁を間にはさんで、尾根筋を巧みに利用して配置されている。それを幅の狭い平地の腰郭が、囲むようにして、巡らされ、連郭式の縄張りとなっている。 昭和五十二年から三ヵ年にわたって発掘調査が実施され、本丸に南接した枡形門跡や、二の丸から六棟の建物跡が検出されたほか、城内の各所で石積みも確認されている。遺物は、二の丸の穴蔵(石室状土拡)から多く出土し、武器類と日常生活用具に大別される。武具では、大刀・小刀のほか鉄砲玉や鎧の部品が発見されている。生活用具では、青磁・白磁の中国渡来の香炉や皿をはじめ、加賀作見窯・越前焼の擂鉢・大甕の日用雑器が見られ、他に和鏡・紅皿の化粧用品や骨角製の賽子や円盤状の駒なども出土している。 ![]() ![]() 天正八年(1580)、織田方の武将柴田勝家軍の猛攻によって、当城は落城し、山内衆の首領鈴木一族は滅ぼされる。その後、当城は織田方の吉原次郎兵衛の管理↓に置かれたが、白山麓門徒の抵抗は続き、当城をめぐり攻防戦が展開された。しかし、天正十年(1582)三月一日をもって、白山麓の一揆は、織田方の佐久間盛政によって鎮圧される。この結果、三百人にもおよぶ門徒たちが磔に処せられた。白山麓の村々は廃村同様となり、以後三年間は荒地と化したともいう。 鳥越城跡は、加賀一向一揆の栄光と挫折を最後まで担い続けた、白山麓の先人たちの記念碑としての歴史上の意義をもつ。ここに近隣の関連深い二曲城跡と併せて史跡に指定し、その保存を図るものである。 ![]() 後三の丸の北方を巡る空堀は、東向きの谷地で一段深く掘り下げられていた。掘には、水を通す砂の地層と埋め立てられた谷地からの湧き水が常に流れ込んでくる。水の得難い山城にあっては、深い堀に溜められた水は城内を支えたであろう。 ![]() ![]() 主要郭内での軸線に当たる地形から、南北方向の石敷き道や堀底道が設置されますが、最終的には北方の空堀と西方の腰曲輪を囲み、本丸を防衛していた郭と想定されます。 ![]() ![]() ![]() ![]() 出土品には石臼・茶臼、鉄釘、銅銭、越前焼の甕・擂鉢、漆塗碗などがあり、碗・皿・盃などで中国製磁器が目立つ。武器類には鉄砲玉、小刀、鎧断片があり、食料の米・粟は炭化した状態で多量に出土した。また、井戸跡北側から金板片を発見した。 ![]() 尾根筋の本丸へ登るために腰部の南端から取り付く坂道があり、大振りの岩を組んだ石垣で固めている。坂上にある中の丸門は見通しがきかないように土塁などで遮り、礎石建ちの門は南方に向いて開き、大日川を越えて二曲城跡を眼下に臨む。 ![]() ![]() 郭には全周する土塁が築かれ、南東側が特に高い。南西隅の礎石建物跡は、谷に臨んで二曲城を正面にした隅櫓で、東縁の礎石建物跡は東腰郭側に備えた櫓である。内側には建て替えを表す堀立柱建物の柱穴多数と食料貯蔵用の石室状土坑1基が発見されたが、礎石が抜き取られていた。 土坑内からは炭・焼土に混じって、陶磁器類と刀、鉄砲玉、鏡、漆器碗・皿、賽子が出土した。 ![]() 鳥越城跡の北端を占める本郭は城跡の中で面積が最も広く、屈折する空堀によって本丸側から離されて独立的性格をもちます。西方の裾部には幅の広い腰曲輪が造成され、北東方から東方には空堀が掘られ、水場のあやめが池に落ち込みます。 郭へは腰曲輪の南西隅から入り、階段状の区画を登ります。南西端の狭い区画には堀立柱建物跡や排水溝、玉石敷きの施設が発見されています。 城内の中枢部から空堀で隔てられた本郭は、前線基地的な役割を果たすものと思われます。 『鳥越城跡案内板』より
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資料 |
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私見 | ![]() ![]() ![]() ![]()
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