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引田城跡


登城日:(2006.07.30)
所在地: 東かがわ市引田
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
引田城狼煙台跡です。 引田港から引田城近景  城の起源は遠く、天智天皇の六年(1667)十一月屋島築城のとき、阿倍比羅夫率いる引田氏によって築城されたものであるとも云われ、また、屋島城(軍団)との連絡のために出来た「狼火台」として造られたのが城のはじまりになったとも云われている。
 この城が内海の要塞として代々の城主四宮氏・仙石氏・十河氏・生駒氏などにより改修が加えられ、近世の城として体裁を完備していったが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となり、今は山上に石垣・土塁そして空堀などを残すのみで、城郭としての規模はわからない。
 しかし引田の住民はこの城を拠点として、事ある時は軍船を操り水軍の衆として大活躍をなし、平時にあたっては内海はもとより朝鮮・支那の遠海に運航し、特に永正年間大内氏と結び近くは堺・兵庫、遠くは台湾・呂栄まで渡航して貿易に従事し、引田藩の全盛を招来した。

引田城西の郭にある石垣 ◆西の郭・天主台・南の郭
 ここは、西櫓跡と言われている所で方形の石垣が残っており、その上には展望台らしい構造物跡があるが、これは大正十二年久邇宮良子殿下(昭和天皇皇后)行啓予定地の報により展望台道路の整備等をなし現状が一部変更されている。
 ここから南東方、魚の神付近に天主台、更にその先に南櫓跡の石垣が残っているが、近年崩れ落ちた箇所も多い。またこの付近の石垣は、後年引田港一文字波止堤防用としてくずされ利用された。その堤防は眼下南方に現在する。天主台等の建造物については瓦片等から想像し、生駒時代の構築と考えられている。

『引田城跡案内板』より

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資料 【地図を表示する】
 

私見
美しい瀬戸内の海  引田城は引田港をまわりこんだ北側半島の突端山上にありました。登城口は引田港そばの南西麓にあり案内板と縄張り図が設置されています。標高82メートルの城山は南側から眺めていますと平らになった頂上部が長く続いているのがわかります。面積約1500uというのですからかなり大きいですね。
 登城口をくねくねあがっていくとすぐに尾根上に出ます。夏場でしたがあまり草もなく予想以上に登りやすいところです。狼煙台を過ぎると西の廓跡に石垣が残されています。このあたりから左右に広がる石垣が続いていたらしいとされていますが、時折列石状にも見える巨石が当時のことを想像させてくれますね。
 引田城の中心部は南側にむいたコの字状に石垣がめぐらされ、東西南北にそれぞれ櫓があったようです。そして北櫓には石垣が一番よく残っています。私はよく知らないまま引田城に来ていたんですが、香川県内でも貴重な石垣をもつ山城なんですね。改めてまたじっくり来たいと思います。ほんとはこの近くにあったらしい砲台跡も探していたのですがこっちはまったくわかりませんでした。
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