香川県のお城 | |
香川県は讃岐と呼ばれ、瀬戸内海の一大交通路であったために、古くから先進文化が伝わりやすい地域であった。が、その交通路のために海賊が跋扈するところでもあった。 守護細川氏のもと比較的忠実であったと思われる讃岐武士も応仁の乱後、それぞれ独自の道を歩むようになっていく。そんな讃岐武士達を大きな流れに巻き込んでいったのは中央政局であった。細川政元の後継ぎ争いが次第に周辺を巻きこんでいくと、まず阿波の三好氏が東讃に侵攻をはじめたのに加え、さらに中国の大内義興のもとに身を寄せていた足利義稙も上洛して将軍の地位を狙わんと、大内氏に支援を求めた。すると大内義興は伊予河野氏の協力もあって、村上、塩飽水軍を掌握することに成功し、一気に讃岐諸将を味方に引き入れてしまった。 しかし大内義興が没する(1528)や、諸将はこぞって細川晴元に従うようになり、やがて細川方の十河一存が讃岐における一大勢力となった。やがて一存の子存保のもとに束ねられたものの、後の長宗我部元親の侵略を止めることができず、讃岐全土は長宗我部氏の手中に帰す結果となった。 天正十三(1585)元親が土佐に退去したあとは、仙石秀久が宇多津聖通寺城で統治を行ったがやがて領地召し上げとなり、そのあとを尾藤知宣が領主となった。 天正十五年になると尾藤氏の後をうけて生駒親正が入封してきた。いくつか居城を転々とした親正はやがて高松城を築き、そして西讃のおさえとして子一正を丸亀城に入れた。 関ヶ原の合戦後は、生駒氏は領地召し上げとなり、西讃には山崎家治が、東讃には松平頼重がそれぞれ入国、それ以来讃岐は分割統治で明治を迎えることになる。山崎氏が断絶になると、播磨龍野より京極高知が入封し、元禄七年(1694)には京極高通が丸亀の支藩として多度津藩に任ぜられた。こうして讃岐は三藩分治により明治維新を迎えることになった。 |
讃岐 | 20城 | 【戻る】 | |||
名称 | 読み | 所在地 | 登城日 | お奨め | |
高松城跡 | たかまつじょう | 高松市玉藻町 | 99.07.24 | ★★★ | |
丸亀城 | まるがめじょう | 丸亀市一番町 | 07.06.10 | ★★★★ | |
引田城跡 | ひけたじょう | 東かがわ市引田 | 06.07.30 | ★★★ | |
多度津藩陣屋跡 | たどつはんじんや | 仲多度郡多度津町 | 06.08.12 | ★★ | |
喜岡城跡 | きおかじょう | 高松市高松町 | 06.08.12 | ★★ | |
屋島城跡 | やしまのき | 高松市屋島東町、屋島西町 | 06.08.12 | ★★★ | |
長崎鼻台場跡 | ながさきのはなだいば | 高松市屋島西町 | 06.08.12 | ★★ | |
北岡城跡 | きたおかじょう | 高松市西山崎町 | 08.01.13 | ★★ | |
仲村城跡 | なかむらじょう | 善通寺市中村町、景政神社 | 08.01.13 | ★★ | |
飯田城跡 | いいだじょう | 高松市飯田町 | 08.01.13 | ★ | |
芝山城跡 | しばやまじょう | 高松市香西北町、芝山神社 | 08.01.13 | ★★ | |
佐料城跡 | さりょうじょう | 高松市鬼無町佐料 | 08.01.13 | ★★ | |
垂水城跡 | たるみじょう | 丸亀市垂水町中村、浄楽寺 | 08.01.13 | ★ | |
福家城跡 | ふけじょう | 高松市国分寺町福家、長然寺 | 08.01.13 | ★ | |
藤尾城跡 | ふじおじょう | 高松市香西町、宇多神社 | 08.01.13 | ★★ | |
城山城跡 | きやまじょう | 坂出市府中町、西庄町、川津町、丸亀市飯山町東坂元 | 08.01.13 | ★★★ | |
勝賀城跡 | かつがじょう | 高松市中山町、勝賀山 | 08.01.13 | ★★★ | |
安田城跡 | やすだじょう | 小豆郡小豆島町安田 | 08.09.15 | ★ | |
番屋七兵衛屋敷跡 | ばんやしちべえやしき | 小豆郡小豆島町岩谷 | 09.01.25 | ★★ | |
皇踏山城跡 | おうとさんじょう | 小豆郡土庄町淵崎 | 09.01.25 | ★★★ | |
【戻る】 |