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龍野城跡
登城日:(2000.01.01)
所在地: 龍野市上霞城
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
龍野城二階隅櫓 龍野城城門  龍野城は今から四百八十年ほど前(室町時代明応の末期)鶏籠山山頂に築かれたもので、初代城主は赤松村秀でありました。以後赤松時代は四代続きましたが、天正五年(1577)に信長の命による秀吉の播州征伐の軍門に降り開城しました。その後慶長初年に山頂にあった天守が破却されたという言い伝えがあります。
 江戸時代に入ると龍野城は現在地に平山城として築かれましたが、万治元年京極高和の丸亀城移転にさいして破却され、その後十四年間は天領となっていました。寛文十二年(1672)幕命によって信州飯田から脇坂安政が五万三千石で入部し龍野城を再建しましたが、時代は既に太平の世でもあり、また外様大名でもあったので幕府の嫌忌に触れることを恐れ御殿式の築城に決したといわれ、その為城郭というより武装化した邸宅と考えていただければよいと思います。
 現在の本丸御殿は、昭和五十四年に再建したものですが、再建にあたっては当時を偲ぶ貴重な資料や現在残る数点の古図に基づき重建したものです。
 (くわしくは「龍野城史のあらまし」「龍野城本丸御殿のあらまし」をごらんください。)

「龍野城跡案内板」より

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資料
◆歴代城主
元号 西暦 城主名
永正3〜天正5 (1506〜1577) 赤松氏4代:赤松村秀、政秀、広貞、広英
天正9〜天正13 (1585〜1587) 蜂須賀正勝
天正13〜天正15 (1585〜1587) 福島正則
天正15〜文禄3 (1587〜1594) 木下勝俊
文禄3〜文禄4 (1594〜1595) 小出吉政
元和3〜寛永3 (1617〜1626) 本多政朝
寛永3〜寛永9 (1626〜1632) 小笠原長次
寛永10〜寛永13 (1633〜1636) 岡部宣勝
寛永14〜万治1 (1637〜1658) 京極高和
寛文12〜明治4 (1672〜1871) 脇坂氏10代:安政、安照、安清、安興、安弘、
    安実、安親、安薫、安宅、安斐

私見
復元された本丸御殿 城門を抜け本丸跡へ  龍野城はこれで2回目です。前回は工事中の為、入ることを断念したのですが今回は工事も終了したということで再度訪城してみました。
 城のまわりの路上に駐車し、裁判所横の城門をめざしていってみるとなんと「立ち入り禁止」の札がかかっています。城門も重い口を閉ざしてしまったかのように閉められています。正月元日だからでしょうか、仕方がないかなと思いつつ周囲をうろつくことにしました。
 現在の龍野城は平山城として横に長い城地になっています。ちょうどしたには幼稚園と裁判所があり、ちょっとかわった位置関係です。裁判所をぐるっとまわってみると、かつての家老屋敷跡を示す家老門が残っています。そしてそこを右に曲がると白亜の二層隅櫓がたっています。そこまで来て諦めて、車のところに戻ってきたのですが、ふと思い立って「立ち入り禁止」の札を乗り越えて城門前までやってきました。そこまで来てはたと気が付きました。
 「城門は閉まってるけど、左側からは入れるやん!」なんと、左側は立ち入り自由な状態なのです。(本当は札を乗り越えていることですでにいけなかったかも。)
 本丸御殿も復元されているし、さきほどの隅櫓もすぐ目の前にあります。よく見るとその隅櫓の横からも入っていくことができたようでした。
 こうして龍野城の甘い守り(?)の為うまく潜入できたことに味をしめ、今度は古城がある山頂を目指そうと思いましたが、さすがにここにはチェーンがしてありました。ま、今日は歴史資料館もあいてませんでしたし、それは次回に回すことにします。
 この龍野城自体はたいしたことありませんが、龍野市全体が城下町の風情をそのまま残してありますからそれだけを味わうために訪れるというのもいいかもしれません。
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