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飯田城跡 登城日:(2000.11.18) 所在地: 飯田市大手町 |
歴史 |
長姫神社、柳田館、日夏館の用地に当り東西、南北共に百メートル、土塀で囲まれて本丸御殿を中心として七棟の建家群で、四百メートル余りに及んでいた。大杉が多い茂り陰気で建物が大きすぎ、城下町より離れすぎていることで堀氏中期以後公行事以外は、桜丸(今の赤門一帯)が使われたという。長姫城とも呼ばれている。遺構は柳田館と美術館の間の空堀跡、神社裏の石積土塁跡、観耕亭の碑のみである。境内に長姫神社由来碑(三条実美書)がある。三宜亭旅館の用地になっている。東端には武具庫三棟と番所をもつその昔山伏の修行所であった由縁で山伏丸と呼ばれる内郭があった。
◆観耕亭碑 この碑は安政六年(1859)に建てられたもので、観耕亭の碑といいます。碑文には「飯田城主堀親義侯は、文武の業にはげみ、折を見ては城外に出て山水を賞することを楽としていた名君である。しかし、外出すると働いている農民の邪魔になる。そこで城中に小亭を作り、そこより城外の農民たちが農耕にいそしんでいるのを眺め楽しんだ。賢者の楽と言うべく、まさに仁政の基とすべきである。」という意味が書かれています。「観耕亭記」の篆額は安藤正宜の筆によるもので、碑文は昌平黌教官の安積信(良斎)の作、高橋豊珪の書によるものです。碑文の内容、筆跡ともにすばらしいものです。 ◆赤門 赤門は長姫城櫻丸の門で、宝暦四年四月(1754)に上棟された。本丸は町から遠く不便なので桜丸で政務をとったといわれる。入母屋造りで瓦葺、鬼瓦には堀氏の家紋「向梅」が使われている。 平面は二本の鏡柱と控柱とで構成され潜戸を設けてある。 明治になり飯田県・筑摩県飯田支庁・下伊那郡役所・地方事務所等の郡衛の王門として使われていた。
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資料 |
私見 |
飯田市の市街地を見渡す小高い山の上に飯田城が築かれていました。今や美術館や市役所、図書館が立ち並び、すっかり城の姿を消してしまっています。
築城は一般には室町時代に地頭だった坂西氏が山伏丸を主郭として城を築いたのがはじめとされています。その後戦国時代に武田氏が本格的に築城したといわれています。その後、織田氏、徳川氏をへて豊臣氏に属し、毛利秀頼、次いで京極高知が城主になり、城下町を整えていきました。 関が原の合戦後、小笠原氏、脇坂氏が入封し、寛文十二年(1672)以降は、堀氏二万石の居城となりました。 本丸跡の神社と赤門くらいしかないのが、残念ですがこれでも明治維新まで続いたんですよねぇ。周りが公共の施設が立ち並んでいることからすっかり城地を占領されていっています。
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