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鶏籠山城跡
登城日:(2003.10.05)
所在地: 龍野市龍野町北龍野
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
黄色いテープが嬉しいです。 本丸にある石垣跡  龍野城が鶏籠山上に築かれたのは明応八年(1499)に赤松村秀によってである「日本城郭体系」。村秀の後を継いだ嫡子政秀は30年間もの長き間統治していたのであったが、元亀元年(1570)に毒殺される。その後弥三郎広貞が城主となり、天正五年の羽柴秀吉の播磨侵攻の際には広英が城主となり、無血開城し退去してしまう。
 天正十年(1582)の秀吉の中国攻めに功を立てた広英は但馬竹田城を与えられ、龍野における赤松氏の時代は完全に幕を閉じたのであった。
 その後、秀吉配下の石川紀伊守光元、蜂須賀正勝、木下俊勝、小出吉政と次々と城主が入れ替わっていく。やがて鶏籠山頂にある城は不要のものとなり、山麓に新にが築かれ、鶏籠山城はしずかにその役目を終えたのであった。
 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後には、播磨52万石を領有した池田輝政が姫路入りを果たし、その支配下としてこの龍野は、家老荒尾但馬守が城代として入城した。

『日本の中世城館調査報告集成15』東洋書林刊参照

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資料
 

私見
よく残っている土塁跡  以前は諦めたこともあったのですが、久々に龍野城にやってきました。今日はその背後に聳える鶏籠山へ登ることが目的でした。龍野城本丸裏、ネットで厳重に野生動物が降りてくるのを防いでいるところをくぐりぬけ、原生林の鶏籠山へと足を踏み込みます。なお、ここには鶏籠山を散策するガイド冊子が置かれていますのでありがたく頂戴しておきます。
 いざ山へ踏み込んで見ますと予想に反して、かなり木々が伐採され実に見晴らしがよく安心して歩いていけるよう整備の手が入っていることがわかりました。途中木の枝には黄色いビニールテープが巻きつけられており、登城道を間違わないようしっかりと導いてくれているのも嬉しい配慮です。なお、山頂へのルートは2つあり、一つは右手へ折れ大手道からの急斜面を登るルート、もう一つは左手へ折れ紅葉谷経由のルートとなります。私は迷わず大手道から登りはじめました。このルートは結構きついです。といってもひぃひぃ言うものでもないのですが、足元が滑りやすいのと右側が急な断崖となっていて、うっかり油断するととんでもないことになってしまう危険があるんです。ですが、途中には何段かの削平地や、土塁跡なども見られ、また石垣が崩落したような跡もあり見ごたえは十分です。
二の丸付近にも石垣が  二の丸跡で一息つけるようにベンチも用意してあるのですが、ここでうっかり帰らないようにしてください。さらに奥へと進み、一旦下がるのですが再度登りとなったあたりからは石垣跡や石畳など、今まで見なかったほどの量の石が私を出向かえてくれています。本丸を形成している高みの周囲には崩落しかかっていますが、しっかりと石垣があり、中世山城を十分堪能することができるようになっています。
 個人的にはかなり気に入った山城なのですが、おそらくこのままほおっておくと木々の成長に押されてさらに本丸の石垣が崩れていってしまうのではないかと心配になってきます。あまり無理な整備は押し付けがましくて嫌いなのですが、ここはできるだけ往時の姿が偲べる程度には維持していっていただければなぁと思いました。
 そうそう、途中鹿のフンがあちこちで落ちていました。私は遭遇しませんでしたが一人で登られるのは少し危険かもしれません。
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