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長崎鼻台場跡


登城日:(2006.08.12)
所在地: 高松市屋島西町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
左手前と右奥に石垣が残ります。 蔀土塁がよく残る長崎鼻台場跡  このあたりは、屋島最北端に位置し、長崎の鼻と呼ばれています。ここからは、女木島、男木島、大島、豊島、小豆島などの美しい瀬戸の島々をながめることができます。
 嘉永六年(1853)ペリーが軍艦を率いて浦賀に来航して以来、国内では、海防の必要性が強く叫ばれるようになりました。讃岐では、文久三年(1863)幕府の命を受けた高松城主松平類聡が高松の港を守るため、ここに砲台を築きました。砲台は、藤川三渓(現高松市三谷町出身)の設計によるもので、南の丘から海に向って上、中、下の三段に分けて築造されました。上段は、守備兵の屯所になっており、中、下段には大砲が備えられていました。

『長崎鼻台場跡案内板』より

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資料 【地図を表示する】
 

私見
長崎鼻台場跡の石垣です。かなり崩れてしまっています。 長崎鼻台場跡の石垣です。こちらは積み直されてますね。  屋島城を右に見ながら屋島最北端にある長崎鼻台場にやってきました。砲台の上段がそのまま駐車スペースとなっており、いまだ残る土塁のおかげで海を直接見ることができなくなっています。この駐車スペースを一望するだけでも十分よく残ってるなぁという感想が出るのですが、台場はここを含め三段構成となっています。上から見下ろすと海に突き出た地形の上に石垣が組まれていたのがなんとなくわかります。古い写真で円形状に突き出た石垣が組まれているのを見たことがあったのでそれを期待していたのですが、残念ながら波に洗われ、かなり崩れてしまっています。
 備砲は六門あり、二十六斤と十二斤砲が設置されました。合計65人で守備していた(「城郭・陣屋・要害台場事典」東京堂出版)ということで、かなり力の入った台場だったようですね。
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