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佐料城

佐料城跡


登城日:(2008.01.13)
所在地: 高松市鬼無町佐料
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
佐料城北側の様子。すぐ左手側が「北堀」跡 宅地と神社となっている佐料城跡  笠居郷(鬼無・香西・下笠居)を本拠に阿野・香川郡に勢力を広げ、讃岐藤原氏一門の棟梁となった香西氏の居城跡である。詰の城とされる勝賀城に対し、佐料城は里城である。讃綾の館とも呼ばれる。
 香西氏は承久三年(1221)承久の乱で、北条氏に従い軍功をあげ、天正五年(1577)十八代佳清が藤尾城を築いて移り住むまで代々この城に拠って、中央政界ともつながりを持ち発展した。
 勝賀山東麓の微高地にある畑地にL字状の堀跡が残る。それを内堀、付近を城の内と呼ぶ。約65メートル平方の方形館の様子が分かる。周辺には、城の台、馬場の谷、東門、北堀、城の新屋など地名や屋号が伝えられる。城の内の南東隅に「南海治乱記」、「南海通記」の著者、香西成資の父、植松吉兵衛時蔭の墓碑がある。

『佐料城跡案内板』より

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資料 【地図を表示する】
 

私見
佐料城東側は少し内側にカーブしている先に内堀が見られる 昭和49年の佐料城跡上空より  県道33号線の佐料バス停すぐ南の信号を西へ折れると正面に勝賀山が見えています。道はなだらかな登り斜面となっており、右手に公民館と佐料城の案内板が目に入ったらそこ一帯がかつての佐料城跡というわけです。ちなみに信号のところが「東門」であったとされています。
 城域は現在もL字状に残る内堀や「城の内」を中心に方形居館跡らしい跡をわずかに残していますが、いかんせん宅地化が進んでいますのでわかりにくくなってしまっています。それに写真が撮りにくいですよね・・(-_-;;
 内堀の北側先には「北堀」と呼ばれ、現在も一段低くなった地形や細長い形状がうかがえます。そのまま東側へ回り込むと「御屋敷」、そして民家脇の細い路地を南へ進んでいくと右へ少しカーブした箇所に出ます。いかにもそれっぽい感じを受けます。そこに置かれている墓石は香西成資が父親である植松吉兵衛時蔭の供養のために建てたものです。ここから右折し傾斜を上がって一段高い段に出ますと内堀がよく確認できるようになります。
 一通り一周してみると最初の印象と違い、埋もれた城館跡が見えてくるような錯覚を覚えます。昭和49年の空中写真(「国土画像情報(カラー空中写真)」より)を置いておきますのでなんとなく平地城館の雰囲気を感じ取ってみてください。(『古城跡を訪ねて』高松市歴史民俗協会・高松市文化財保護協会刊参照)
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