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皇踏山城跡登城日:(2009.01.25) 所在地: 小豆郡土庄町淵崎 |
歴史 |
◆本曲輪(本丸) 皇踏山西峰の東台地頂上に約40メートル四方の地域を占めている。 東南と西南は、天然の盤石に人口の詰石を組み込み、急傾地形と相まって、天然の防衛線を構成している。 西面は、自然の盤石が二重に鋭い列石を構成し、本曲輪の防衛線を成す。 北面は、平面に近い緩傾地となり第二曲輪からの登城道がついている。 ◆虎口左右の土塁と空堀 この「三日月堀」は、一つには、敵が堀底を道として利用しようとしたとき、まっすぐ遠くを見透かせないように遠見遮断のために工夫されている点であり、もう一つは、直線だと弓矢で射る角度がかなり限定されるが、「三日月堀」だと横矢がかりができるという利点がある。すなわち、正面攻撃だけでなく、側面から敵に弓矢をあびせることができたのである。 土塁については、斜面の土を削りとり、それを高い方に盛り上げて土塁とし、低い方の土塁はその傾斜面をそのまま残して利用したもののようである。 ◆北の曲輪 連郭式城郭であれば、二の曲輪の北側にさらに連続して三の曲輪といったものが予想されるが、この部分例の三日月堀の背後にあたり、一つの曲輪があってもよさそうな位置であるにもかかわらず、現状では、これといった平坦地が認められない。そのかわり、二の曲輪からは距離的に離れるが山上部分平坦地の北端に一つの曲輪が設けられていた可能性が高い。北側の見晴らしがきき、北側の急崖を仮に敵がよじのぼってくる場合には、ここで防ぐことが理想であった。 ◆大手木戸 虎口を入ると石段があり右折し、さらに左折しながら城内に入っていくことになるが、虎口を入ったあたりに一の木戸とよぶべき門があったと思われる。今回の発掘調査によって配置された石がでてきたことにより、一の木戸から三の木戸まであったように思われる。 のちの時代でいえば大手一の門、二の門、三の門ということになるが、この段階では門という表現よりは、木戸とよぶのがふさわしい。 『皇踏山城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
皇踏山城は標高393メートル、小豆島西方の山上に聳える山城です。どうもあまり詳しいことがわかっていないようで幻の城という扱いのようですね。古代の山城であるという見方もされていましたが、今は中世の遺構が見つかっていますので、少なくとも中世には機能していたことだけはわかっています。 土庄町の南側から見上げるととんでもなく大変な城攻めになりそうなのですが、北側から回り込めば車で(といっても悪路です)中腹の公園となっている辺りまでは行けますのでそこから片道30分くらいの緩斜面を登っていくことになります。ハイキングコースのように道が通っていますので登りには苦労しませんが、それ以外は藪ですので城跡としての構造がなかなか頭に入っていきにくいのが難点でした。途中から左手に並行して延々と連なる石塁を見ることになりますが、この石塁こそが皇踏山城の大きな特徴となっており、同じく島内にある星ヶ城とは完全に趣が異なる山城となっています。猪垣という見方もあったようですが、山上の平坦な場所に連なる石塁はそういう風には見えないのですが、かといって城郭遺構だと言いにくいですね。 中世城郭の遺構としては空堀と土塁を持つ虎口があり、右へと進路をとれば北の曲輪から詰の曲輪へと続いています。北の曲輪からは視界が広がり、はるか下を走るフェリーも確認することができます。そしておそらく城内では一番大きいのではないかと思われる詰の曲輪は皇踏山の山頂を示す三角点が設置されている場所です。奥にいけば巨大な石がごろごろ転がっており、又ここにも石塁が見られます。 そのまま進めば搦め手を降りてしまいそうでしたので、引き返します。実はこの日は雪が降ってくるという大変天気の移り変わりが激しい一日です。視界が分からなくなる前に降りてしまわないと。でもその前に最初の虎口まで戻ったところを今度は二の曲輪、一の曲輪へと見て回ります。途中で石塁をまたいでいかないと曲輪にたどり着けないところもあり、やっぱりこの石塁は城とは関係ないのかなぁ。 雪がひどくなってきましたので急いで下山しました。はっきり言って皇踏山城がうまく整理できません。誰がこんなところに山城を構築したんでしょうね。佐々木信胤の星ヶ城の関連する城とするにはしっくり来ず、なんとも気持ち悪い状態です(^^;。
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