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喜岡城(高松城)跡登城日:(2006.08.12) 所在地: 高松市高松町、喜岡寺 |
歴史 |
鎌倉時代の末期、建武の中興の攻臣舟木(高松)頼重が讃岐守護職としてこの地に城をかまえていましたが、建武二年(1335)十一月二十六日、足利尊氏の臣、細川定禅らの軍勢に攻められ、老父一族十四人と郎党三十余人討死し、落城しました。 その後、ここ高松城にて高松庄を領した高松左馬助頼邑は、天正十三年(1585)四月二十六日、秀吉の四国征伐の一隊(宇喜多秀家ら七将の兵)約二万三千の攻撃をうけ、手兵百余人と、香西氏派遣の唐人弾正、片山志摩の率いる兵、合わせてわずか二百をもって勇敢に戦いましたが衆寡敵しがたく城兵ひとり残らず討死しました。 高松町長塚は、当時激戦のあった場所で全将兵を葬ったところと伝えられています。 高松頼邑、唐人弾正、片山志摩の墓は、喜岡寺境内にあります。 『喜岡城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
JR高徳線「屋島」駅を南東へ200メートル、途中狭いくねくねとした道路を通り民家をすりぬけていきますと喜岡寺に到着します。微高地となっているのがわずかな城跡の名残なのでしょうか。喜岡城を目指してきたのですが現地では高松城なんですね。現在、玉藻公園として有名な高松城のほうは天正十六年(1588)に生駒親正が名づけたんですね。弊サイトでは区別するためにこちらの高松城は喜岡城としておきます。 喜岡寺の駐車場に車を停め、ぐるりと周囲を歩いてみます。同寺に隣接して一段高くなったところに神社がありますが、どうやらここが主郭跡のようです。遺構はたいして残ってないようですのでゆっくり時間をかけませんでしたが、ここが元祖?高松城だったというのが面白い収穫でした。
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