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北岡城

北岡城跡


登城日:(2008.01.13)
所在地: 高松市西山崎町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
北岡城跡に建つ石碑と案内板  北岡城は秦久利(はたのくり)の居城である。秦久利は、菅原道真公によく仕え、管公も文学の才に秀でた秦久利を愛し親交があった。秦久利は、老いて一女のみであったので、管公の族子をもらい後継ぎとし、久利長門守といった。
 その後、この地方を統治し、香西氏に仕えた。戦国時代に土佐の長宗我部軍に攻められ、よく戦ったが敗れ下野した。

◆胴面塚
 昔天正年間に阿波三好郷に武将三好清重という人がいた。この人は文字を全く知らなかった。ある日、城主の書状を持って、北岡城にきた。書面には、「この者は誰が切り殺しても差し支えない」という内容であった。
 三好清重は、帰る途中、城の付近で一刀のもとに首を切り落とされた。この塚は、面と胴と二ヶ所に分けて祀られています。これを胴面塚といっている。この塚の霊は「我は文字を知らなかったので、こんな憂き目にあったのだから、今から我を信ずることの厚い者は、読み書きの道に上達させてやる」と人に知られた。この誓願によって今も進学祈願の参拝者が多い。

『北岡城跡案内板』より

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資料 【地図を表示する】
 

私見
畑の中に残る北岡城跡  堂山城の東麓のみかん畑の中に北岡城はありました。場所があいまいでしたが、なんとなくあたりをつけていけましたのでおそらくピンと来ると思います。また、近くの付近案内図にも載っていましたし、地元の方に聞いても丁寧に教えていただけるので問題なしでしょう。
 城跡は段差のある頂上部に碑と案内板が設置されています。ここから東側へは視界が開けていますが、周囲の畑がかつてどんな地形だったのかは想像しづらい状態です。
 さらに下に下りていって、民家の脇には胴面塚が祀られていますので進学祈願の方はぜひお立ち寄りください。(ご利益があるかどうかはわかりませんが)
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