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内城

内城跡


登城日:(2009.03.20)
所在地: 鹿児島市大竜町、大龍小学校
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
小学校となっている内城跡 校庭隅の大龍寺跡  儒教僧文之和尚が開いた学問の寺院
 戦国時代、田布施(鹿児島県金峰町)にいた島津家15代貴久は、跡目争いで薩州島津家実久を敗り、この場所に内城を築き、移り住みました。
 以来50年、内城は島津氏の本城として城下町の中心でしたが、18代家久の時、鶴丸城が築かれ廃城となりました。その跡地に建立されたのが瑞雲山大龍寺です。臨済宗に属し、寺号は内城を居城とした貴久・義久のそれぞれの号、「大中」と「龍伯」に因んでつけられました。開祖には南浦文之(なんぼぶんし)が招かれ、朱子学をわが国にもたらした桂庵玄樹の学風を伝える儒僧として、その教えを広めました。
 文之和尚は、1555年(弘治元年)日向(宮崎県)飫肥に生まれ、文殊童と呼ばれるほどの才児で、串間の龍源寺の一翁玄心によって桂庵の教えに触れました。
 著作の中で、「南浦文集」に収められた「鉄砲記」は、わが国への鉄砲伝来を知る貴重な資料といわれています。
 また文之和尚は、義久、義弘、家久の三代につかえた政治顧問としても有名で、琉球政策などに手腕を発揮し、黒衣の外交官といわれました。1620年(元和六)死去、鹿児島県加治木町の安国寺に葬られています。

『大龍寺跡案内板』より

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資料
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私見
校庭隅の大龍寺跡 石垣が気になります  現在、大龍小学校が建てられている場所は、約五十年間、島津氏の本城として存在していました。それまでは清水中学校の裏山付近にあった清水城が居城でしたが。島津家第十五代貴久が伊集院から鹿児島に入り、天文十九年(1550)に内城を築いて移り住みました。この地は御内と呼ばれ、その子第十六代義久、第十八代家久が居住していましたが、家久が城山の麓に鶴丸城を築いて移ると、この地には大龍寺が建てられました。
 ということで、小学校の校庭隅に大龍寺跡を示す案内板がありましたが、内城であることがなんだか弱い気がします。もっと城跡であることをアピールしたほうがいいんじゃないかなぁと思いますが、小学校だから自粛気味だったりするのでしょうか。城の遺構はなさそうですが、ただ学校を取り巻く石垣がそれっぽく見えるところもありますねぇ。
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