城めぐドットコム HOMEへ Check   Twitterでつぶやく  

河村城

河村城跡


登城日:(2009.11.15)
所在地: 足柄北郡山北町山北
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
城址公園内に設置された案内板 広大な面積を誇る河村城、本城郭  河村城跡が位置するこの地は、城山と呼ばれ、北を旧皆瀬川、南を酒匂川によって周辺山地と分断された自然の要害とも言うべき地形となっている。城山の標高は約225メートルで、酒匂川との比高差は約130メートルを測り、東へ浅間山・丸山と連なる独立丘陵状をなしている。
 河村城の周辺では、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交錯することから、数多くの城砦群が築かれている。甲斐から城ヶ尾峠を越えると湯ノ沢城・中川城・大仏城山・新城・鐘ヶ塚砦が、駿河から箱根山地・足柄峠の尾根筋を下ると足柄城・阿弥陀尾砦・浜居場城があり、さらに足柄平野縁辺部には松田城・沼田城などがあるが、なかでも河村城は甲斐・駿河から足柄平野に至る交通の要衝に位置している。
 河村城の築城は古く、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族波多野遠義の二男河村秀高によって築かれたと伝えられている。秀高の子義秀は、源頼朝の石橋山挙兵の際、平氏方に属したため領地を没収されるが、建久元年(1190)鎌倉での流鏑馬の妙技により、本領河村郷に復帰できたと『吾妻鏡』にある。町指定文化財「室生神社流鏑馬」はこれに由来すると言われている。
 建武の中興・南北朝時代と河村氏は松田氏とともに南朝側の新田氏に協力し活躍するが、北朝側の足利尊氏らによって鎌倉が攻められると、河村秀国・秀経らは新田義興・脇屋義治とともに河村城に籠城する。正平七〜八年(1352〜53)にかけて、畠山国清を主将とする足利尊氏軍と戦火を交えるが、南原の戦いで敗れ、新田・脇屋らは中川城を経て甲州に逃れたと『太平記』にある。
 当時の河村城については、『管領記』に「山嶮にして苔滑らかに人馬に足の立つべき処もなし」とあるように、難攻不落の堅城であったことがうかがえる。また、籠城戦の様子については、河村氏の菩提寺とされている岸の般若院所蔵の『梅風邪記』(写)に詳しい。
 南原の戦い後、河村城は畠山国清・関東管領上杉憲実を経て大森氏の持城となったと考えられ、その後相模に進出してきた小田原北条氏に受け継がれていく。
大きな堀切に架けられた木橋 近藤郭から東はまだ調査中です。  戦国時代、小田原北条氏は武田氏との攻防から、前記の各城とともに小田原城の支城として河村城を重視し、特に元亀年間には河村城の補強を行ったことが『相州古文書』に見られる。その後、武田氏との間で周辺の諸城とともに争奪戦を繰り返し、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で落城、廃城になったと考えられるが、これらを伝える史料は残っていない。
 河村城の規模・郭配置については、『新編相模風土記稿』及び堂山の鈴木友徳氏所蔵絵図に見ることができるが、遺跡の保存状態が良いため、現地でも概略の位置は確認できる。各郭の名称は、絵図を参考に付けたものであるが、記載のないものなどについては、調査・研究等に使われている名称を便宜上使用している。
 河村城は、急な斜面と入り組んだ谷を持つ地形を充分に生かした郭配置がなされており、大きく三つの尾根を堀切によって郭としている。現在地を本城郭とし、東の浅間山に連なる尾根に蔵郭・近藤郭・大庭郭・同張出部を配しており、絵図によっては張出部の南脇を大手としている。本城郭から北へ伸びる尾根には小郭・茶臼郭を配し、西へ伸びる尾根には馬出郭・西郭・北郭・同張出部を配し大久保平へと続いている。郭の周囲には水郭・帯郭が随所に見られ、本城郭と北郭の間に馬洗場、小郭と茶臼郭の間にお姫井戸の伝承地があり、湧水があったと考えられる。
 平成二年の本城郭及び堀切二ヶ所の試掘調査では、本城郭から柱穴と思われるピット六個が検出され、古銭(熙寧元宝)・染付陶磁器などの遺物も出土している。ピットの覆土にはいずれも焼土・炭化物が含まれており、根固め用と考えられる河原石が認められた。また、河村城東端の大庭郭張出部東側の堀切では、幅約20メートル・深さ約11メートルの箱薬研状を呈する堀であること、蔵郭と近藤郭間の堀切は、幅約30メートル・深さ約15メートルの河村城最大の規模であることが確認された。
 さらに、平成四年の本城郭から茶臼郭の間の堀切二ヶ所と小郭の発掘調査では、小郭両側の堀切はいずれも畝堀の形態であり、本城郭側の堀切では八本、茶臼郭側の堀切では五本の畝が検出された。また、小郭平坦面は一辺約15メートルの三角形状を呈し、縁辺には地山を削り出して低い土塁が設けられており、南・北端には「つぶて石」に利用したと考えられる拳大ほどの河原石の溜場が検出されている。郭全体には焼土・炭化物の薄層が覆っており、焼失した可能性があるが、ピットは四個確認できただけで建物の存在を示唆するまでには至っていない。
 また、平成五年の河村城の根小屋とされる岸湯坂地区の土佐屋敷・秀清屋敷伝承地の試掘調査までは、室町時代から戦国時代にかけての館跡と思われる溝が一部確認されており、当時すでに館・詰めの城の関係が成立していた可能性がある。

『河村城跡案内板』より

【戻る】

資料
【地図を表示する】
 

私見
本城郭裏手にある畝を持つ堀切 上から見下ろした畝堀  河村城は、北を旧皆瀬川、西と南を酒匂川が流れる独立丘陵となっている天然の要害の上に建てられていました。現在は河村城址歴史公園として整備されているので大変訪れやすくなっています。最寄り駅のJR御殿場線「山北」駅から南へ歩いていくと1キロも歩かないうちにたどりつけますし、同じく北側の麓に駐車場があるようなので一般には北側からのアプローチがいいようです。しかし私の場合は、それを知りませんでしたので南側から非常に細い道路を苦労しながら車で斜面を登って、一番奥の駐車スペースに車を停めました。冷や汗をかきながらなんとか車を置いた後は、いよいよ登城開始です。すでに有る程度登っていますのでそこから10分くらいでしょうか、南側も登城道が歩ける程度にありますので恐らく夏場でも来れるのではないでしょうか。しばらくすると右手に馬出郭を見ながらいきなり本城郭についてしまいました。周囲の見通しがきいた大変明るい公園といった佇まいですね。なんだか少々拍子抜けして右へと進路をとると大きな堀切の上に木橋が架けられています。そして発掘調査の時の様子が案内板で細かく掲示されているのは有難いです。さらにその先の蔵郭から東にはフェンスがされていて、まだ調査中のようです。どうやらしばらく調査工事がストップしているような様子ですが、今後もぜひ続けていただきたいと思います。城の縄張りを見るとまだ半分以上が未整備といった状態なのがわかりますので、全て公園化されたらかなりの規模になりますね。期待して再訪の機会を考えたいと思います。
北側からのアプローチは巨大な切岸が阻みます お姫井戸  さて、進路を反転し本城郭から北へと向かいます。遊歩道を下っていくと、さきほどまでとは違った城の表情が突如として迫ってきました。段差の大きな切岸と堀切、そして堀切には畝が付けられています。小郭があって、さらに北にも畝をもった堀切が綺麗に顔を出しています。武田方への備えとして整備されたものなのでしょうか、城の北側に集中した素晴らしい遺構の数々にただ感嘆の声が自然と出てしまいました。しかし、この畝堀で一体どれくらいの防御効果があるんだろうかと思ってしまいます。本城郭を少しでも強固に護ることになっているのはわかるのですが、実に細かい仕事をしているものです。
【戻る】