和田城跡 登城日:(2003.03.23) 所在地: 三浦市初声町和田 |
歴史 |
和田小太郎義盛は十六才の秋、父の死をさかいに鎌倉杉本城から和田に移り、このあたりは義盛の居館があったところです。 義盛が和田ノ里に館をおいたのはその頃すでに和田は三浦半島有数の穀倉地帯であったためにこのあたりが領民を守り、水田を管理するにも地の利を占めていたともありました。 義盛は和田を終生の根拠地と定め合戦にのぞんでこの地から多くの兵士が出陣し、食料が戦陣におくられるなど重要な役割を果たしていたところです。 現在和田館はその跡をとどめていないがこの館を囲むようにして木戸脇、唐池(空池)出口、赤羽根、矢作などの地名が残っていて往時を偲ぶことができます。 また和田館には木曽義仲の妾巴御前が義盛に預けられここで余生を送ったといわれています。 ◆和田義盛の碑 鎌倉武士の栄枯盛衰の典型的な例は和田一族であるといわれています。一族を率いた和田義盛は、鎌倉幕府創建の功労者、半島の剛勇三浦大介義明の孫に生まれ、当三浦市初声町和田を領したことから和田氏を名乗り、武勇はことのほか勝れ、弓矢にかけてはこの右にでるものがない程だった。 頼朝挙兵に参加したとき、義盛は三十四才でしたが、以後大いに活躍、鎌倉建府の大立者であった。その功によって最高職の侍所の別当に任ぜられ、頼朝、頼家、実朝の三代にわたってその忠誠をつくしたが、退潮する源氏に替って天下を狙う北条氏にことごとに対立するようになり、ついに北条義時の挑発と策謀にのってしまい、いわゆる「建保の乱」を起こしましたが、同志と信じていた同族の三浦義村の北条方への寝返りもあって、建保元年(1213)五月四日、鎌倉由比ケ浜で北条氏のために滅されてしまいました。 時に義盛六十七才、この石碑は武将和田義盛の在所と思われるこの地に郷土の武人、そして、悲運の最期を偲びてその武勇をたたえて大正十年三月に建立されました。 『和田城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
油壺の新井城をあとにして134号線を北上、和田の信号を左折します。すぐに和田義盛の碑が見つかります。そして次にそのまま道なりに進み、「平塚農業高校初声分校」か「ふれあいの村」を目指せば和田城の碑があるところにたどりつきます。 134号線を走っていただけではわからなかった田園が広がる、かつての穀倉地帯を想像させてくれる風景がそこにありました。それに農業高校だってあるし・・(笑) 遺構はありませんが、地名としてかつての名残があるだけのようです。ここはほとんど時間をかけることはないでしょう。
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