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栗本城跡登城日:(2012.05.06) 所在地: 四万十市赤松町 |
歴史 |
天正三年(1575)幡多を遂われて国外にいた一条兼定は、土佐一条家を回復するため、南予・幡多の将兵を率いて、中村に進攻し、ここ栗本に要害の城をかまえて、長宗我部の大軍と一戦を交えた(世にいう、渡川合戦である)が、空しく敗れて、西方伊予方面に逃れたと伝えられている。 尚、一条兼定の墓は宇和島市戸島、竜集寺境内にある。 栗本城は、具同地区を中心とした市西部の人口増加により、将来の水供給に対する施設設置の計画がおこったため、工事に先だって昭和五十八年に発掘調査が実施された。 調査の結果、詰の北部では土壙、中央部と南部では溝状遺構・追手と思われる段状遺構が検出された。柱穴・ピットは詰のほぼ全面で検出されており、南北両端部に櫓が建てられていたことが想定される。西部郭にも多くの柱穴がみられ、ここにも建物が存在していたと思われる。更に中央部では搦手と考えられる段状遺構が検出された。 土師質土器・古備前・中国青磁・古銭・鉄釘など室町時代後期の出土品は幡多郷土資料館に展示してある。 栗本城跡に建設した具同配水池は、昭和五十九年二月竣工、容量二千立方米、内径十八米、高さ八米、PC工法によるものである。 『栗本城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
県道346号から川沿いの細い道を北上していくと、左手に小高い独立丘陵が見えてきます。斜面を上がっていくにつれて周囲が見渡せるようになるのを感じながら、上まであがっていきますと城の案内板が設置されていました。横にある石碑は残念ながら城とは関係なく、「具同配水池」とあります。 案内板内の縄張り図がとても有り難い!壊されてしまったのが北郭であり、案内板がある辺りが堀切跡であることがわかりました。(それがなければ難しい・・) 段差のある主郭は藪が酷くてとても何が何だかわからない状態です。南側へまわりこみ郭面に踏み込んでみましたが、やはり遺構を確認できることはできません。ここはあまりいい保存状態ではありませんね。ひょっとしたら冬場に見ればまた違った印象が得られるかもしれませんが、お手軽に山上までやってこれますので挑戦してみていただければと思います。
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