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愛宕山城

愛宕山城跡


登城日:(2011.07.10)
所在地: 福知山市土師
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
愛宕神社の案内板より 愛宕山城山頂部  愛宕山城(前田愛宕城)は、中世に城があって合戦が行われたという記録が残っている。『丹波志』には管領細川高国(法名道永)から塩見神三郎に対して、戦いの功績を称える感状があったとする。また、慶長五年(1600)に小野木重勝の家臣土師の墨丸が細川忠興の軍勢を迎え撃つためにこの山に立て籠もったという記録もある。
『日本城郭体系』新人物往来社刊参照

 愛宕神社由来
祭神
伊弉冉命 軻遇突智命【加具土神】
神仏習合の思想に基づく祭神【愛宕権現太郎坊=天狗】と本地仏【勝軍地蔵】も祭祀されており仏教色濃厚である。

境内社
日吉神社・・・事代主命
幸之神社・・・猿田彦命
稲荷神社・・・保食神
八幡神社・・・誉田別命
大神神社(皇大神宮社)・・・大日霎命


祭礼
春祭 一月二十四日、夏祭 七月二十四日
一般には防火の神として信仰厚く、お祭には近在からのお祭りが多い。昭和十年代以前の参詣には「愛宕道」と呼び慣わされてきたコースが利用された。

伝説
 慶長十四年(1609)頃、前田一ノ宮の森【現明天神社の杜】の大桧が夜毎燐光を放つのを見た村人が京都愛宕神社の分霊を勧請し、ここに祠を建てたのにはじまる。
 藩主有馬侯が由良川で鷹狩の際、行方不明になり一ノ宮の愛宕神に祈念したところ霊験があり忽ち飛びかえってきた。

庇護
 慶長十七年(1612)有馬侯が祠を現在地に遷座(創建)、明暦三年(1657)松平忠房侯社再建、脇宮、鳥居寄進。寛文七年(1667)愛宕神社を近郷五社の一つに選定
【一宮神社・天照玉命神社・荒木神社・庵我神社・愛宕神社】
 元禄五年(1692)朽木稙昌侯拝殿造営、鳥居修復、社領安堵、宝永二年(1705)火伏せの大釣鐘鋳造。以後朽木家代々の庇護厚く、祭礼には藩侯の代参もあった。
 【梵鐘は明治政府の「神仏分離」政策により、改鋳して鐘楼とも前田の東林寺が申し受けたが太平洋戦争時の金属供出で失った。】

神宮寺
 寛永十四年(1637)藩主稲葉紀通侯は愛宕神社守護のため葛野郡(現京都府)愛宕山大善院末寺として手白山の麓に雲前寺創建、亀岡馬路村(現亀岡市)から中川盛秀が別当として招かれ以後十二世まで世襲。明治二年(1869)雲前寺廃寺、廃寺後の建物は明治六年(1873)から二年間土師・前田両村の学校仮校舎として使用された。

総改築
 慶応四年(1868)四月総改築(九月八日から明治に改元)。現存社殿の基本形態はこの時のものである。
 二枚にわたる棟札に朽木近江守をはじめ奉行ほか職人六十四名の名前が見え、明治維新の変革期における藩主肝いりの大普請であったことをうかがわせる。資金調達のため土師河原で芝居を興行したともいう。
 平成九年(1997)には「府社寺等文化資料保全補助事業」も受け、瓦総葺替ほか大修理を行なった。

手白山
 八合目に遺る土塁から戦国時代は砦だったことがうかがえる。遷座後は土地争いが絶えず、松平侯の時「山は土師、社は前田」という裁定が下された。明治に入り山は国有林にされたが三十三年(1900)払下を受けた。払下後、明治・大正へかけて植林に力を注いだ。明治三十九年(1906)には雀部小学校児童により千三百本の桧笛を栽植したという。

『愛宕神社案内板』より

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資料
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私見
愛宕山に建つ愛宕神社  福知山城から東へ約1.5キロの距離にある小高い独立丘陵の上に愛宕山城があったとされています。現在は愛宕神社が建ち、火の神として祀られています。ちょうど東側からの敵に対して備えるにはうってつけの場所だと思えますね。麓にある愛宕神社の由来にも記されているように、わずかなものですが城跡を示す遺構があるのですね。ここには土塁が、そして日本城郭体系には空堀があるということが書かれています。充分すぎますね(笑)。ということで登ってはみましたが、確かに人工的な改変跡はあちこちに見られますが、それが中世のものなのか、後世の神社に関するものなのかが微妙です。おそらくほとんど後者なのでしょうけれど。
 神社としてすっかり手が入ってしまった感がありましたが、途中2匹もイタチに遭遇するほど、人が訪れることの少ない山であるのが、妙に気に入ってしまいました。
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