
今里城は、乙訓寺南方の風呂川右岸に築かれた戦国期の城館跡です。今里の土豪(地侍)であった能勢氏の城館と考えられ、その中心は旧小字城山付近に想定されます。
平成二年の発掘調査では、南北方向から折れて西へ伸びる堀と井戸、木橋が発見され、羽子板や刀形、木簡、漆器椀、陶磁器などが出土しました。堀は幅5〜7メートル、深さ約2メートルの断面が箱形と、これに接続する幅2メートル、深さ1メートルの断面がV形のものがあります。木簡の頭部には紐穴があり、表と裏に「ひこ五郎」・「大永二」と書かれています。
大永二年(1522)は、乙訓地方の二十八か村からなる九条家領小塩荘の田地の面積、所有者、年貢米の数量を調べた「山城国小塩庄帳」が作成された年です。これは荘園領主が各村から徴収する年貢を定めた土地台帳であり、この中の今里村には「のせひこ五郎」が小字かめい(乙訓寺の西側)の田地一反から四斗一合五夕の年貢米を納めるべきことが記されています。木簡に書かれた名前と年号は「小塩庄帳」の内容と一致することから同一人物と考えられます。また、木簡が城館の堀から出土したことは今里城と能勢氏の関係を裏付ける資料として注目されます。