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宮津城跡登城日:(2008.04.28) 所在地: 宮津市鶴賀 |
歴史 |
◆旧宮津城を偲ぶ 近世宮津城は、天正八年(1580)細川氏(藤孝・忠興)の入国築城にはじまり、次いで入国した京極氏が藩主高広の代に拡張・完成した。細川城の竣工はその入国一、二年の後とみられ、京極城の完成は寛永年間と伝えている。京極城の城縄張は、本丸・二ノ丸・三ノ丸を備え、古絵図等により、今の町割にほぼ対比させることができる。細川城の規模はよくわからないが、少なくとも本丸部分の縄張は重なり合う部分が多いと推測される。 左後方の巨石は、この南方八十メートル余りのところにあった本丸入口くろがね門の袖石垣の一つである。その前のくぼみのある石は大手橋橋脚の礎石、その左の横にある波状の石柱はこの北側波止場の船つなぎ石である。現存する宮津城構築物の遺構としては、この南方十メートルのところに本丸北部石垣の一部が地上に顔を出している程度である。しかしながら、地下にはかつての宮津城を偲ぶことができる石垣等の構築物が今も遺存し、発掘調査によりその様相をうかがい知ることができる。当地は宮津城北西部の二ノ丸地内である。 ◆一色稲荷社 丹後守護職一色氏は南北朝末明徳三年(1392)正月に補任された満範をもって第一代とする。その後若狭武田氏にその職を奪われたことはあったが、七代義有(1500前後)のころまではその実名を明らかにすることができる。その以後の事情は頗るわかりにくい。 近世後期の地誌である「丹哥府志」にいう「一色義清の墓」と、幕末期宮津城図に記載されている「一色稲荷」とは同じものであろうが、その義清なる人物を確定する史料はない。「細川家記」その他近世軍記物によると天正十年(1582)九月八日、一色氏の当主細川藤孝のむこが宮津細川家臣の屋敷で、細川忠興方の手で謀殺されるという大事件があった。細川方の記録類で米田屋敷、「丹州三家物語」で有吉屋敷というが、何れにしても現一色稲荷か、その付近と思われる。 「丹哥府志」はその復讐戦に義清を登場させるが、細川方の記録類は一切そのことにふれない。ちなみにその当主の名は義清、満信、義俊、義定さまざまに伝えられているが、何れにしても、謀略に倒れた一色氏の怨霊に対するおそれが、長く城郭内のこの地に鎮魂の社を存続させたものであろう。 『宮津城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
宮津城は一色氏を退けて丹後に入った細川藤孝によって天正八年(1580)に築城されました。しかし関ヶ原の合戦(慶長五年)の際に西軍に攻められ、廃城となりました。その後京極高広により再建されたとされています。現在は城跡らしい面影を探すのは難しいのですが、近年大手川の整備事業を契機に発掘調査が行われています。「宮津城跡第13次調査 現地説明会資料」を参照してみますと切戸口門跡付近で長さ約12メートル、高さ約1.2メートルの石垣が見つかっていました。慶長期の京極氏による石垣だそうですね。また、南側に土塁があったことも分かっており、枡形が浮かび上がってきたのでしょうねぇ。石材は今後川の護岸に使われるというのを別資料で見ましたが、単純に埋め戻されてしまうのと、現代に有効利用されつつ当時の石を拝むことができるということとどっちがいいのだろうなあ・・と考えさせられるケースです。 ここにこういう感じで石垣があったよと案内板を設置いただければ現地で想像が膨らみますので是非検討いただきたいところです。
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