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物集女城跡
登城日:(2003.06.13)
所在地: 向日市物集女町中条
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
中条一帯がかつての物集女城でした。  物集女城は、中世にこの地域一帯を本拠としていた国人(土豪)物集女氏の居城跡と考えられています。
 長享元年(1487)上久世庄(現京都市)公文に「郷々出銭」を申し入れた「惣国」の代表者六人の中に物集女四郎右衛門光重の署名が見られます。この物集女氏はおそらく幕府の西岡被官衆の一人で、応仁の乱後、惣国の結集に参加したものでしょう。
 織田信長が山城地域を鎮圧したのち、天正元年(1573)細川藤孝は桂川西岸一帯の一職を与えられ、国人らの領土を安堵しました。安堵を受けた国人らは、勝竜寺城(現長岡京市)の藤孝のもとに御礼に参上すべきでありましたが、物集女氏の当主忠重入道宗入は、代々の自分の領地であり参上するいわれはないと拒絶したため、勝竜寺で誘殺され、以後、同氏は衰退しました。
 城跡は、この付近にある土塁と濠によって確認できます。土塁は、幅七〜十二メートル、高さ1.0メートル〜1.5メートルの規模で、北東隅の一部と東辺四五メートル分が残っています。濠は、幅五〜十メートルを測り、深さ一メートル以上あります。現在も水を貯えている部分は、昔からの地域の人々の用水池として利用されていました。
 こうした遺構から、城は東西百メートル、南北七十五メートルの規模を有していたことがわかります。この大きなムクの木のある所は少し高くなっており櫓跡と推定できます。敷地内は中央で二段に分かれており、西側が城主の居館のあった主郭、東側が配下の者達の住居等のあった副郭にあたると思われます。
 また、この地域は、中海道遺跡(弥生時代を中心とする複合遺跡)の中心地にあたり、1800年ほど前から物集女集落の中心地として人々の生活の足跡が残されている所でもあります。

『物集女城跡案内板』より

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資料
 

私見
中条一帯がかつての物集女城でした。  少し前に現地説明会が行われたという物集女城ですが、近くに来る機会があったので雨の中ではありましたがよってみました。物集女城は、阪急京都線「洛西口」駅が最寄りの駅となります。真新しい駅です。駅を降りると線路と交差する道路に沿って山側へ歩いていきます。「御所海道」の交差点の南西方面に広がる中条地区が城跡です。城跡の中心部であるあたりは土塁や水掘を見ることができますが、現在はフェンスでしっかり防護されており、中に踏み込むことができなくなっています。残念・・
 当時は結構大きな城だったようですが、現在では民家やアパートが建ち、道路から見ただけではうっかり見落としてしまうほどかもしれません。が、せめてこれ以上は破壊されないよう大事に守っていっていただきたいですね。
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