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勝龍寺城跡
登城日:(1999.10.09→2006.05.28)
所在地: 長岡京市勝竜寺・東神足二丁目地内
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
勝龍寺城跡 勝龍寺城は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応二年(1339)に築いたといわれる。
城は京都西南部に位置し、西国街道と久我畷に押さえうる交通の要所に築かれている。
応仁・文明の乱(1467〜1477)では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地域の拠点となった。戦国時代になると、織田信長からこの城を与えられた細川藤孝(幽斎)が元亀二年(1571)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正十年(1582)の山崎合戦では、明智光秀が城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城した。
ところで、この城は明智光秀の娘玉(細川ガラシャ夫人)が十六歳のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても全国に知られている。
正面虎口 城の中心部には本丸と沼田丸があり、その周囲に堀をめぐらしていた。北東の神足神社付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁跡や空堀跡が残されている。
この城跡は勝竜寺城公園として整備され、平成四年春に市民の憩いの場としてよみがえった。これに先立つ発掘調査で、藤孝が改修した時代の石垣や多聞櫓が発見されるなど数多くの成果が得られた。その結果、勝龍寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、わが国の城郭史上でも貴重なものであることが明らかにされた。
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資料
 

私見
本丸西部にある沼田丸。帯曲輪が残っています。 ある本では、「勝龍寺城跡は宅地化が進み城跡の面影が年々失われつつある」という文章があり、早くいかないと駄目だなと思っていたんですがいつのまにか奇麗に保存されていたんですね。約50m四方の敷地の外側を堀がぐるりと取り巻き、中は天守風の復興建物が建っています。しかし、よく見回してますとそういった新しいものだけではなく、しっかり古いものも保存されています。
明智光秀が山崎の合戦で破れた後で、一旦ここ勝龍寺城に逃げ込んでから密かに城を抜けたといわれる抜け道跡であったり、西部には沼田丸跡として帯曲輪が発掘されています。
京都で城といえば、伏見、二条といった印象が強いと思いますが、この勝龍寺城跡もいいと思いますよ。
神足神社にある勝龍寺城の土塁、空堀跡 そうそう、忘れちゃいけない細川忠興と玉(ガラシャ)  勝龍寺城で忘れてはいけないのが少し北にいったところにある神足神社です。ここには勝龍寺城の土塁、空堀が現存しているのです。少し竹薮となっているので写真が撮りにくいのですが実際に堀底に降りて土塁を見上げるとその高さ、そして迫力を実感することができますよ。
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