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弓木城跡登城日:(2005.05.04) 所在地: 与謝郡岩滝町字弓木 |
歴史 |
京都府与謝郡岩滝町の一帯は、律令国家の時代には拝師郷と呼ばれる行政地域の西方にあたり、与謝郡衙の存在も推定されています。鎌倉時代になると岩滝町から宮津市須津にかけては稲富保と呼ばれ、摂関家近衙家の所領となりました。 弓木城は、この稲富保を名字の地にした稲富氏が室町時代後期以降根城とし、丹後国守護一色氏が最期の拠点とした丹後地方を代表する中世の山城ですが、そのくわしい歴史はわかっていません。稲富氏については、「寛政諸家系図伝」に「はじめは山田氏なり。丹後国忌木(=弓木)の城主たりし以来、あらためて、稲富氏となる。」とあり、初代稲富氏のもとの姓は山田氏で、丹後弓木城主となってから改姓して稲富氏を名乗ったことになります。そして、二代目直時のときに、丹後国守護一色氏の家臣となったようです。ところで「丹後国御壇家帳」には「いミの木」の大なる城主稲富氏ほか四名の名をあげ、これとは別に「いミの木の地下」にそうめん屋ほかの名をあげています。 天正十年(1582)織田信長の命令をうけた細川藤孝(幽斎)、忠興(三斎)父子の丹後攻略により、一時丹後一色氏は弓木城に立籠りました。が、抗議の甲斐なく滅亡しました。四代直家は、当時希代の鉄砲の名手として一色氏に仕えていましたが、運良く滅亡をまぬがれ一時細川氏に仕えた後、豊臣秀吉、徳川家康に珍重され、晩年は、尾張徳川家の祖義直(家康の第九子)に仕えました。 今日の丹後弓木城は、一色氏最期の地としてあまりにも著名ですが、もともとは稲富氏の居城であり、丹後の中世山城を代表する弓木城の滅亡は、まさに丹後における中世の終焉を象徴する画期的な事件であったといえましょう。 『弓木城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
宮津市内を散策しようと思っていたのですが、渋滞を嫌い一気に岩滝町までやってきてしまいました。町内に城跡は・・と地図に視線を落すとあるじゃないですか。一色氏の弓木城が。 ってことで弓木城をめざしてみましたが、岩滝小学校東側にある城山公園が気になり、車を停めて案内板を見ていますとここが弓木城だと書かれているじゃないですか。うーん、地図では小学校の西じゃなかったか。 ま、細かいことはおいといて早速城めぐです(^^;。駐車場から見て逆L字型にえぐられたような急勾配の丘陵地を見上げながら左手に広がる副郭にあがってみます。はっきりと残る削平とその周りを一段低い帯曲輪状のものも見えます。次に方向転換して主郭のほうへと足を向けてみます。 左手に竪堀を見ながら、主郭への斜面をあがっていきます。主郭は細長い削平地となっており、一番奥に水無月神社があります。そこから下を除くと稲荷神社がたつところにも郭がありますが、ここの落差は非常に大きく、切岸だとしたらかなりのものです。 稲荷神社から南側には土塁がいくつか良好に残っており、全体を通じて中世山城の雰囲気を色濃く残していることはよくわかりました。この弓木城は最初から予定してなかったのであまり時間をとれませんでしたが、行ってみてはじめてじっくり踏破したい城跡だと感じました。すでに記憶があいまい(爆)なのですが、また機会を作って訪れたいと思います。
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