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一身田寺内町跡登城日:(2008.05.05) 所在地: 津市一身田町 |
歴史 |
◆真宗高田派本山 専修寺 この寺は、もと栃木県二宮町高田にありました。親鸞聖人の関東地方教化によって生まれた門弟たちの中心道場として建てられた寺で今もそこに伽藍が残っていて、国の史跡に指定れています。 15世紀になって、第10代住職親慧上人という方が、東海・北陸・近畿の各地へ積極的な布教を行い、多くの末寺ができたので、その中心寺院として一身田に建立されたのがこの寺で、やがて教団の中心が関東からこちらへ移土され、ここが本山となりました。 伽藍は創建以来2度の火災に遭い、現在は3度目の再建で御御堂(本尊は親鸞聖人座像)と如来堂(本尊は阿弥陀如来立像)とが国指定の重要文化財、山門・唐門・御廟が県指定文化財で、堂の背後にある庭園は県指定名勝になっています。また宝物館には国宝三帖和讃を始め、多数の親鸞聖人真筆が保存されています。 ◆寺内町一身田 この町は、弥生文化の原始時代から小さな農業集落でしたが、15世紀に専修寺(当時は無量壽院と言った)が建てられてからは、それを中心として発展を始め、ことに16世紀からは、町の周囲に環濠を作り、専修寺を中心とした宗教都市の様相を呈するようになりました。こういう町を一般に寺内町と申しますが、一身田はその典型と言われています。 濠(堀)は東西約500米、南北400米で、町への入口は3つしかなく、橋のたもとに門があって、夜は閉じられ、不審な者の侵入を許しませんでした。町には住民の自治が進行し、専修寺からは商業資金の融資が自由に受けられたので、商工業が活発となり、町は繁栄しました。また濠の外には橋向という遊郭地域も生まれました。 環濠は昔にくらべて幅が狭くはなっていますが、昔のままのところに残っており、町は静かなたたずまいを見せています。歴史的な町並みをどうぞゆっくりご探索下さい。 ◆一身田寺内町 1.地名の由来と歴史 ”一身田”という地名は、奈良・平安時代の制度で、政治上功績のあった貴族に特別にその身一代に限って与えられた田、「一身田」からきたといわれ、その貴族とは「斎王」ではなかったかと考えられている。(律令制度である「三世一身の法」の中の、その身一代に限って与えられた田、「一身田」からきたとする説もある。) 人々がここに集落を形成したことを最初に示す記録は、一御田神社の棟札に嘉吉三年(1443)の記録があり、この時代には「一身田御厨」として伊勢神宮へ年貢を負担していた農村であったと考えられている。 2.真宗教団の伊勢進出と一身田寺内町 全くの農村地帯であった一身田が大きく変わるのは、高田(栃木県)専修寺真慧がこの地に無量寿院(後の一身田専修寺)を建設してからである。 真慧は、東海北陸地方の布教活動の中心として一身田に寺院を建設し、以後戦火で荒廃した高田専修寺にかわりここが高田教団の中心となった。 寺内町とは「戦国時代、真宗寺院を中心に濠・堀などで防禦された自治都市のこと」(『国史大辞典』吉川弘文館)とされる。 一身田寺内町の成立を明らかにする資料は残っていないが、一御田神社棟札のうち、天正二十年(1592)の伽藍炎上による復旧工事がきっかけと考えられる。 3.寺内町の発展 東西500メートル、南北450メートルの環濠で囲まれた範囲で、環濠の幅は現在ではかなり狭くなっているが、堀の長さは江戸期の記録と完全に一致する。また、濠の内堀には2〜5メートルの堤があったようである。 町の入り口は3箇所にあり、濠に橋が懸けられ、内側に門がたっていた。橋向町から寺内へ入る門は「黒門」といわれ、一身田の町の「惣門」で門の横に「番所」があったといわれている。現在高田幼稚園運動場入り口となっている門が黒門を移築したものといわれている。東町にある門で江戸方面からの入り口となるのが「赤門」で、朱塗りの門であったらしい。西町の入り口は「桜町之門」と記され、一般には「桜門」と言われている。これらの門は、明け六つ(午前6時)に開門され、暮れ六つ(午後6時)に閉門されたと言い伝えられている。 一身田寺内町には「寺内特権」らしいものはみられず、わずかに幕府から専修寺に渡された銀子を低利で融資を受けられることぐらいであった。また、一身田町民は全員が真宗高田派の門徒で、「同行」と言われる隣組に組織されていた。 そのほか、専修寺には住民に時を知らせる「時の太鼓」が設置されていた。「太鼓門」といわれる専修寺東門の最上階に太鼓が吊ってあった。 4.近代の一身田 明治以降一身田は大きな変化をとげた。一身田町の支配は本山から離れ、明治7年(1874)には桜門・黒門・赤門の三門が売りにだされ、寺内町も解体されていった。現在は、新しい建物が増え当時の面影を残す所は数少なくなったがそれでも環濠をはじめ、古い寺内町の雰囲気がよく残っている。 ◆専修寺釘貫門1対2棟 釘貫門とは、柱を立てて並べて横に貫を通しただけの簡単な門のことであり、町の入り口に設けた木戸のようなものを示すこともある。現在はこの山門前の釘貫門だけが残るが、宝暦年間(1751〜63)の木版画には他に3ヶ所矢来(釘貫門)が描かれている。 この釘貫門は道路を挟んで同型同大の東西2棟からなり、石橋と釘貫門の対向する親柱には、高欄が設けられていた痕跡が残る。双方を繋ぐ構造や開閉の装置を持つものではないが、専修寺では釘貫門と称せられている。釘貫門は、山内寺院と町屋を隔てる堀の北側に位置し、堀上に架けられた石橋と併せて聖俗の結界をなす装置となるものであり、本来の形式を留める現存する貴重な例である。 ◆石橋1基 この石橋は、山内寺院と町屋を隔てる堀の上に架かる橋である。堀上に円弧状の橋板11枚を並べた石造の反り橋で、橋の南側の橋詰では、高欄は親柱から水路に沿って折れ曲がるが、東側では一部部材を欠き、欠損していてその一部は近年新材となっている。制作時期は、『高田史料』第三巻(松山忍明編)の宝暦十年(1760)編に、「三月八日、山門前石橋成ル、初渡式」との記述があることから、その建立時期が明確である。 『一身田寺内町案内板』より
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資料 |
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私見 |
一身田寺内町にやってきました。駐車場は専修寺のものをお借りできますので、ゆっくり散策することができますね。しかしここは同寺がかなり立派なのでまずそれに圧倒されます。寺内町として見ると環濠がそのまま残り、また町並みもおそらくかなりの部分残っているようにみえます。案内板の文章がよくできていますので特に追加で説明することはありません(笑)。寺内町ファンには間違いないです、ここ。
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