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白石城跡
登城日:(2002.05.19)
所在地: 白石市益岡町1−16、益岡公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 復元された白石城三階櫓  天正十九年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は城下町を含む城郭、白石城を築城し城主となった。
 慶長三年(1598)上杉領となってから上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。
 慶長五年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達正宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣である片倉小十郎が大改修を行い、以後明治維新まで二百六十余年間片倉氏の居城となった。
 白石城は標高七十六メートルの最頂部には本丸・二の丸・中の丸・西曲輪、中段には沼ノ丸・南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪を置き丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で丘陵を切断、館堀川を隔てた平地には三の丸・外曲輪を配置した平山城である。本丸は高さ九メートル余の石垣の上に土塁を囲み三階櫓そして巽櫓・坤櫓・大手門・裏三階門を構え、御成御殿・表・奥の諸建物があった。二の丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわした崖を利用する等中世と近世城郭を併用した縄張りであった。
 元和元年(1615)の一国一城令以後も仙台藩は幕府から青葉城と白石城のニ城が許され、明治維新には奥羽越三十一列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された。そのご按察府の設置、兵部省兵隊駐屯所になるなど、日本の歴史の変換期には一役を担う重要な城であった。
白石城鐘堂 ◆鐘堂と鐘
 白石城鐘堂は、その脇に物日(祝いの日)に片倉家の白地黒鐘の大馬じるし、三階黒鳥毛などが立てられたと伝えられるが、発掘調査の結果等により、三階櫓(天守)東側のこの突出平場に建っていたと考えられる。
 もとの鐘は文正元年(1466)に鋳造されて、伊達郡東昌寺にあった。東昌寺は伊達家四世政依が弘安年中(1278〜88)に建立した寺で現在仙台市に移っている。
 何時の時代にか白石城に入って、非常の際に撞き鳴らされていた。また毎年七月、城回りの土手と堀の清掃の時には、この鐘を鳴らした。朝八時に七つ撞いて仕事を始め、九時に五つ、十時に三つで終わる。侍と城下にいる足軽、その他扶持を受けている者が総出で堀払いをした。
 長年使用したため、ひびが入ったので、寛文元年(1661)、片倉三代景長が仙台の鋳物師早山彌五助に命じて再鋳した。それが戊辰戦争後、明治三年(1870)白石城払い下げの時、ゆかりを知って伊達郡桑折町の傳来寺で買い求め、その由来を新たに記して使用していた。太平洋戦争中、古鐘であるといって保存させたので供出をまぬがれて傳来寺境内に現存している。

『白石城跡案内板』より

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資料 ◆歴代の城主と主な出来事
統治期間 城主 主な出来事
寛治年中〜五代百一年間 刈田左兵衛門経元  
文治五年〜十五代三百九十七年間 白石秀長 白石宗実の代の天正十四年安達郡塩松宮森城に移る
天正十四年〜五年間 伊達家臣屋代勘解由兵衛景頼  
天正十九年〜七年間 蒲生家臣蒲生源左衛門郷成  
慶長三年〜ニ年間 上杉家臣甘糟備後守清長  
慶長五年〜ニ年間 伊達家臣石川大和守昭光  
慶長七年〜二百六十七年間 伊達家臣片倉小十郎景綱  
明治元年〜明治二年七月二十一日 南部彦太郎利野恭  
明治二年八月十日〜明治三年十月六日 三陸磐城按察府  
明治四年四月〜明治四年十一月 兵部省兵隊屯所  
明治七年〜   民間に払い下げされ解体
明治三十三年〜   白石町益岡公園設立

私見 白石城跡  JR東北本線白石駅から徒歩10分ほどのところにある白石城跡は野球場やテニス場もある益岡公園内に復元されています。
 石垣は野面積み、三階櫓に使用されている木材は桧を使っているなどなかなかリキが入った復元のようです。また現地ガイドのかたも待ち構えてくださっており(笑)、もし必要ならその方々に説明をお聞きすることができるようでした。ここはかなりお奨めですよ。
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