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林大城跡 登城日:(2002.09.01) 所在地: 松本市大字里山辺・入山辺 |
歴史 |
南北朝争乱時の功績により信濃守護となって府中(当時の松本の呼称)に入った小笠原氏は、戦国時代に武田晴信が信濃に進攻するまでの間、筑摩郡及び安曇・伊那地域を中心に勢力を張った。その間小笠原氏は、平地の城館である井川城と山城の林城を根拠地として、四周に順次山城群を配置して強固な防衛線を構えた。
筑摩山地の西側に突き出した尾根に構築された林城と一括される大城と小城は、筑間に大嵩崎集落を挟んで連立し、林城の東に深く入り込む山辺の谷には、桐原城・山家城を配して小県佐久地域に備え、北方は伊深城・犬甘城・平瀬城などを配して固め、諏訪伊那地域に通ずる南方の要には埴原城を構える他、筑摩山地の西面の各所に砦を築いて、一帯は大要塞群をなしていた。 その後、各々の城は武田氏により修築が行われたものと思われるが、竪堀の構造・配置など、小笠原氏の山城に特徴的な基本構造は、今日までよくその姿を留めており、これらの城砦群は、小笠原氏の興亡を語る貴重な史跡である。 ◆林大城の石垣と土塁 本丸は東西四八メートル、南北二一〜三七メートルあまりで、西方を除いて石垣、土塁がめぐっている土塁敷は四、五メートル、高さ三メートル上部の巾は一〜二メートルに及んでいるが南側は痕跡を残す程度の低さである。 本丸をめぐる土塁は戦いに鉄砲が使われだしてから土塁の後には石積みがあり、この石は入山辺の山家城の石よりも小さく河原の石をそのまま使った素朴な乱れ積みである。 このように当時そのままの石積みは私達に歴史を語りかけてくれます。 どうぞこれからも城址と共に石垣を大切にしてください。 ◆小笠原城、林城 1大城(金華山城) 2小城(福山城) 一、指定年月日 昭和四十五年十月二十二日 二、由緒 この史跡は建武年間(1334)信濃守護小笠原貞宗が府中に井川館を設けて以来、長時が武田晴信に敗れて退去した天文十九年(1550)まで約二百年間、きびしい戦国の世に処した小笠原氏の本拠地で中世における連立式の築城遺構をもっている。 三、規模 この城跡は林城の大城、小城並びにその前衛をなす埴原城を含めた雄大な要害で守護小笠原氏の貫禄を示す本県の代表的なものである。大城は松本市里山辺を入山辺にまたがる丘陵上に構築され、本郭第二郭ともに副郭土塁石垣を備え数条の帯郭をめぐらし山体の要部に大小幾多の空濠を配し、近く大城に劣らぬ防備をもった小城に連なり周辺を桐原中入城等の支城に囲まれている。本郭の東北部には、水の手の遺構、城下の林部落には町割、侍屋敷の名残りをとどめている。 『林大城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
松本城から車で約20分ほど走らせた山上にある林城をめざしました。山城でしたが地図で見ていてもかなり近くまで車で寄せることができそうです。
ということでレンタカーのビッツの限界に挑戦しているかのような山道と急斜面をおそるおそるのぼっていきました。何度か底をこすっている(笑)ようでしたが、運転している身にしてみればそれどころではありません。「これ帰る時はもっと怖いんだろうなぁ」とおぼろげに考えつつ、アクセルとハンドルを慎重に操っていきます。 地図では公園のようになっていますが、とんでもないです。もし私のように車で来られた方はぜひ麓に駐車していかれることをお奨めします。が、怖い思いをすれば主郭のすぐ下まで車でいくことは不可能ではありません。山をまっすぐ直線に登ることなんてそうそうないことですが、今回体験することができて、その恐ろしさがよくわかりました(本当に実感したのは下山時でしたが)。 半ば呆然としつつ下車したすぐ目の前は主郭跡です。案内板にあるようにかなり広い規模を誇る本丸ですね。しかも奥には土塁や石垣も見ることができ、やはり来てよかったなぁと思わせてくれるあたり、山城の醍醐味ですね。この林城は、大小2つにわかれているようでしたが、小城への道はわかりませんでしたので断念して下山しましたが、この主郭の規模から小笠原氏の当時の力を推し量ることができたかなと思いつつ次へ向いました。
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