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一夜の城跡登城日:(2012.07.21) 所在地: 伊那市富県 |
歴史 |
天正十年(1582)三月、仁科五郎盛信以下、伊那の地侍が守る高遠城に織田の軍勢が迫りました。信長の生涯を記した「信長公記」には決戦の前夜、織田の大将織田信忠(信長の長男)は”かいぬま原”に陣取ったとあり、その本陣跡がここです。昭和三十年代にはほとんどが畑に開墾されましたが、東北角の厚みのある土塁は当時のままです。
『一夜の城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
平成二十四年七月に、一夜の城の発掘調査速報展と説明会がありました。「信長公記」に『3月1日に信忠が天竜川を渡り、貝沼原に陣立てを行った』とありますが、初めて一夜の城と記述されたのは明治三十四年刊行の「南信伊那史料」でした。また、明治八年
にこの地に貝沼学校を新築する際に県に充てた「学校敷地願」の中に『字延引坊城址にて畑秣場千二十七歩場所』とあり、城があったことや延引坊というお寺があったことが伝わっています。一夜の城跡とされる場所には、延引畑という字名がついていました。 昭和になって、現在の所有者の祖父が土地を購入し、畑地とした時に一部の土塁を壊したり、東側に土塁崩落防止のために石垣を作ったそうです。現在も残る東側虎口にある石垣はこの時のものですので間違いないように。 今回の発掘調査は、城跡の東に隣接する道路を拡幅したいという地元の声を受けての先行調査だったのですが、その調査結果によって城跡の四周に空堀が作られていたことがわかってきました。そもそも臨時に築城された一夜の城に空堀があるとは考えられていなかったのですが、幅6メートル、深さ2.6メートルという規模はかなり立派なものですね。また堀底の形状はU字形なのですが、一部がさらに掘り込まれており段差があるような状態でした。説明会では、当初V字形であったものが後に拡幅されて今のような状態になったのではないかということでした。また出土した遺物には中世の天目茶碗、古瀬戸四耳壺、内耳土器があり、詳細は不明ながら少なくとも16世紀以前に作られていたものであることがわかっています。つまり信忠が来るよりも百年も前のものです。 以上、発掘調査によって様々な新たな発見があったわけですが、これによって織田軍による一夜の城の存在を明らかにするものではありませんでした。まぁ発掘のトレンチがもっと城の内部で実施ができれば違ってきていたのかもしれませんが、私有地ですのでなかなか難しい面もあるのですね。それよりも、この発掘のきっかけとなった道路拡幅が今後実施されていくのかが最大の問題です。そうなれば土塁が壊されてしまうわけですのでなんとか現状を維持する方向で進めていっていただきたいものです。周辺には驚くほどの城跡が存在しているのもこの地域の特徴ですので、こういった史跡をPRしていっていただきたいなと思います。
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