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松代城

松代城跡


登城日:(2000.11.19→2011.11.21)
所在地: 長野市松代町松代
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
 松代城(海津城)跡[国史跡]
松代城案内板より 松代城本丸  松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。
 海津城の築城年代は不明ですが、海津城の名が文献に確認できるのが永禄三年(1560)ですので、このころにはすでに築城されていることがわかります。
 戦国時代から江戸時代初頭までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上での軍事的・政治的に重要な拠点となっていました。
 元和八年(1622)に真田信之が松代に移ると、松代城本丸に御殿を建築し、松代藩政の拠点としました。
 その後、江戸時代の半ばには、御殿が城の南西に位置する花の丸に移ることになり、本丸は機能を持たなくなりました。

松代城南門より 復元された太鼓門  松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との『川中島合戦』の際に、武田方の前進基地として築かれた海津城がその始まりといわれており、永禄三年(1560)頃に普請が完了したものと伝えられています。慶長五年(1600)関ヶ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃、二の丸・三の丸を整備し、土塁を石垣に築きなおしたものと考えられています。元和八年(1622)に真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城までの約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。
 松代城は、北西側を流れる千曲川を自然の要害として造られた平城で、最奥部に本丸、南側の城下に向けての二の丸・三の丸・花の丸などの曲輪を構えていました。
 明治五年(1872)の廃城以降、建物は無くなったものの、昭和五十六年(1981)に本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。

『松代城跡案内板』より

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資料
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私見
丸く弧を描く土塁 南側の内枡形  真田家10万石の松代にやってきました。現在も城下町の雰囲気を今なお色濃く残しながら無秩序な開発がなされていなくてとても落ち着いた佇まいを持っているところですね。いい言い方をすればですが。前回訪れた時の松代城は、復元工事がまだまだこれからといった状態で、本丸南側の石垣のまわりに足場が組まれていました。すでにネットや書籍等で現在の様子は知っていましたので新鮮な驚きこそありませんが、「ようやく来れた」という達成感は言葉では表せないほどです。
 かつての海津城は、慶長五年(1600)に森忠政が入封した頃は「待城」と呼ばれ、関ヶ原の合戦を経て松平忠輝の領地となると「松城」へ改まり、そして現在の「松代」となったのは正徳元年(1711)の事だそうですね。水濠と石垣が整備され、太鼓門が聳えるように見える様を目の前にした今の私にとっては、まさに再訪を”待つ城”でした。(^^;。

南側の北不明門 本丸裏手の土塁 北不明門  本丸の中に踏み込む前に左手に土塁がまあるく整備されているのが気になります。弧を描く土塁の姿は非常に美しいものですね。外濠の内側に面したラインなのでしょうか。ちょっとイメージしにくいですが・・まぁ良しとしましょう。視線を戻します。水を湛えた内堀と石垣、そして太鼓門を正面にした構図で1枚、右にずれて見える太鼓門が美しいですね。通常の枡形ならば90度曲げさせて門が造られるものですが、ここ松代城は珍しい構造になっています。そしてややひし形のような本丸には戌亥櫓の櫓台石垣と立派な城址碑が存在感をアピールしていますね。北側には北不明門が同じく復元されており、枡形を構成しています。内側から見た姿はなんだか頼りない印象でしたが、外側から見ると二階から撃ち下す様子も想像でき、また往時は堅く閉ざされてたいたであろう門扉も重々しい雰囲気が出ていてよかったです。
 本丸北側に出ると土塁が長く続いています。新堀や百間堀の内側を表してくれているのですね。松代城は限られたスペースをうまく使って江戸時代後期の姿をよく表していると思います。2012年3月末を持って長野電鉄屋代線が廃線となりますが、その後どう活用されていくのかも合わせてまた松代城への再訪を”待つ城”としていようと思います。
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