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高島城跡 登城日:(2000.11.18) 所在地: 諏訪市高島 |
歴史 |
この地は高島城本丸跡である。この城はおよそ三百八十年前、文禄・慶長年間日根野織部正高吉が七年を要し彼独特の技術を生かし諏訪湖の波打ち際に築いた難攻不落の水城で別名を浮城とも言われている。関が原の後は諏訪氏の居城となりそのまま転封もなく維新まで続いた。 この間、城は中山道や甲州街道の道中記には必ずのせられる名勝でもあった。 本丸内は藩主の御殿や書院、また一般政務の御用部屋、郡方、また賄方などがあり、能舞台。氷餅部屋など多くの建物で埋まっていた。 明治維新の改革で高島藩は消え、明治八年には天守閣も破却されたが、諏訪氏の在城二百六十余年間、一度も百姓一揆もおこさせるような暴政のでたことのない名城であった。 明治九年本丸跡は高島公園として公開され、護国神社も祭られ、諏訪の人々の心のよりどころとして親しまれてきた。今日も城内と言われた大手門以南の地形がおおよそ昔のままの姿を残して近世の城郭を考えるいい資料である。今度の復興については文部省文化財専門委員大岡実博士の設計により、破却当時の姿を忠実に再現したものである。 庭園は天守閣復興とともに諏訪高島城復興期成同名会長岩本諏訪市長が自らの設計により、諏訪市が人の心の和によっていよいよ発展することを念願して、人字形の池に心を島で表し、滝や渓流を配して躍動感を与えて造られたものである。 高島城は天正十八年(1590)、豊臣秀吉の武将、日根野織部正高吉によって設計され、文禄元年(1592)着工、慶長三年(1598)完成した。 この高島城は、諏訪湖と数条の河川が周囲をめぐり濠の役をつとめ、諏訪湖の波が城の石垣に迫り、「諏訪の浮城」と呼ばれ慶長六年(1601)初代藩主諏訪頼水から十代藩主諏訪忠礼に至る二百七十年間、諏訪氏の居城としてその威容を誇ってきた。 明治四年(1871)廃藩置県となり、明治八年(1875)廃藩置県によって天守閣は撤去され、翌明治九年(1876)五月高島城址は「高島公園」として、一般に開放された。 朝夕の「時の太鼓」が鳴らなくなって百年、諏訪の住民の「高島城」に寄せる愛着は強く、昭和四十五年(1970)春、ここに「高島城」は復興された。 高島城跡案内板より
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資料 |
私見 |
諏訪湖湖畔といっても思ったほど湖畔じゃなかったんですねぇ。この高島城はぐるっとまわった城の裏側に無料の専用駐車場があります。そこに車を止めると、公園内にはいりました。四層五階の復興天守と、二階隅櫓と櫓門、そして日本庭園が整備された公園です。また、駐車場と反対側には水が張られた内堀もあります。
天守はなんか安っぽい印象をうけました。特に千鳥破風の上の窓(笑)がどうも違和感をうけます。ま、県内の数少ない天守ですから貴重なんですが・・・。
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