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高遠城跡
登城日:(2000.11.18)
所在地: 上伊那郡高遠町、高遠城址公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
本丸側からみた問屋門 ◆問屋門
 幕政時代に主な街道には宿駅を定め問屋と称する人馬伝送宿泊を始め交通上の駅務をとる役人をおいた。
 この門は高遠本町にあった問屋門であったが昭和二十三年ここに移したのである。
 門前の橋下に本丸側の石垣や門を入った左側の石積や土手は大体往時の形を存している。

◆新城(盛信)神社
 藤原神社の由来
本丸の周りには石垣と堀があります。  文政十一年(1828)城主内藤頼寧は、天正十年(1582)当城において織田の大軍を引き受け壮烈な最後を遂げた。武田信玄の五男仁科五郎盛信の霊を城内にまつり「新城神」と称し崇拝してきた。
 これより先、城内には内藤頼以公が藤原氏の先祖大織冠鎌足公を勧請した「藤原社」があったので、廃藩置県の明治十二年(1879)この神社を「新城神」とあわせて今日に至っている。
 なお、宝物として内藤家寄進の甲冑その他の文化財があるが、これらは高遠町郷土館に保管されている。

◆太鼓櫓
 藩政時代、城内搦手門内にあった太鼓は毎日偶数時にこれを鳴らして藩士の出退や城下町民に時を報じその便益を計っていた。
 廃藩の際、城の建物が撤去された時一時城南白山に楼櫓を建造してこれに移したが、明治八年再びこの地に戻し現在の鼓楼は明治四十五年建築されたものである。
 この年大太鼓も張り替え、現在高遠閣の二階にあるのがそれである。

『光城跡案内板』より

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資料  

私見
本丸隅にたつ、太鼓櫓。  高遠城は、めずらしく天守を持たない城なのに専用の有料駐車場をもっています。ちなみに500円。おそらく桜が満開となるシーズンにはすごい人が押し寄せるのでしょうが、今の季節ではがらがらでした。あとで気がついたのですが、ここ「普通車は4番駐車場へ」といった案内が下から出ているのですが、別にそれに従わなくて、手前で路駐してもよかったのですね。平日でがらがらなのに素直に駐車場に入れたのが馬鹿みたいです。>自分(笑)
 ま、それは置いといて、高遠城址公園へは北口から入ります。すぐ左手には高遠閣(管理事務所)があり二の丸あとが広がっています。そのまま真っ直ぐ進んで右手にある桜雲橋を渡って本丸跡へと向かいました。橋の下には堀跡と、本丸の外側には立派な石垣が残っています。橋の先にある問屋門もそうですが、本丸一帯はかなり力を入れて復元されているなぁと感じました。
 本丸内には新城神社と有名な太鼓櫓があります。この太鼓櫓、以外と小さいものだったんですね。城跡全体からみるとほんの小さな遺構で目立っていない気がします。しかし写真だけはしっかり撮っておかないとね。
 高遠城は、二の丸、本丸の周囲を覆うようにしていくつかの郭がつくられています。笹郭、南郭、法憧院郭、それぞれ遺構らしきものはないですが、至るところに桜の木が植えられており、春先には見事な光景を見せてくれるに違いありません。  あ、歴史のことについて触れてませんでしたね。「日本城郭体系(8)」新人物往来社版によると城の草創期については諸説あり、はっきりしたことがわかっていないようです。武田氏による支配下に置かれていたことは確かなようではあるのですが・・。  その後天正十年(1582)に織田信長の攻撃にあい、高遠を含めた伊那谷は小田氏の支配化に置かれるようになりました。当時の城主は仁科五郎だったことが『信長公記』に記されています。  信長の死後は、徳川氏の支配化にはいった高遠城は保科氏の居城となりましたが、天正十八年(1590)の徳川氏の関東移封に伴い、保科氏は下総多古へと移封になりました。その後は豊臣秀吉の支配化になり、飯田城主毛利氏及び京極氏の城代が居城したといわれています。  慶長五年(1600)の関が原合戦後、再度保科氏(正光)が城主になり二万五千石を領しましたが、正光の養子正之の代に出羽最上へ転封となり、代わって最上藩鳥居忠春が三万石として入封されました。その忠春の子、忠則が自害したことで高遠城は幕府直轄領となり、没収となりました。  二年後の元禄四年(1691)に摂津富田藩主内藤清政が三万三千石で城主となりました。そしてそのまま内藤氏支配のまま明治維新を迎えました。
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