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興ヶ原城跡


登城日:(2005.06.19)
所在地: 奈良市興ヶ原町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
頂上にある郭と左側にある土塁跡 ◆興ヶ原氏について
 嵯峨源氏渡辺党の末孫の興ヶ原氏が室町時代中頃の永享年間に伊賀の名張から来て、この地に土着して近隣の村々を所領し、初め桃香野、大穂、興ヶ原、の三ヶ庄を領した。後に月瀬、高尾、田山を加う。
 天文、永禄の頃に興ヶ原遠江守助豊という人がありその子若狭守助秀は後に、豊臣秀長に仕えて千石余りを領した。
 助秀の妹は柳生但馬守宗厳に嫁して春桃御前と言われ、五男四女を産む。五男は即ち厳勝久斎徳斎五郎右衛門こと但馬守宗矩である。宗矩は一万二千五百石の大名となった。そればかりか惣目付という重い役目になり、将軍家の兵法師範となった。
 十兵衛三厳や飛騨守宗冬はその子にあたる。
腰曲輪から主郭へ  興ヶ原次郎四郎助勝は助秀の子で慶長十六年豊臣秀頼に仕えて奥方千姫付を命ぜられ千二百石を賜った元和元年五月大阪夏の陣に力戦し、七人力あったのでよく強弓を引いて徳川勢をなやましたが二月七日城が陥ちて浪人となる。十兵衛三厳の代に至り柳生家に仕え、その後も子孫代々柳生家に仕え十五石を給せられ徳川末期に大河原へ転住した。

『現地案内板』より

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資料
 

私見
大きな堀切が口を開けてます。  興ヶ原城は柳生集落の奥で川沿いに大きな案内板があり興ヶ原氏についての記述があるところを目安に、左側の村落にはいっていきます。村の一番奥で突き出た丘陵先端部にあるのですが、これは付近の方に聞いてください。私はすっかり同行の鈴木玄蕃殿に頼りきっていましたので場所をうまく説明できません(^^;
 車は城の位置をお聞きした方の敷地内に置かせていただき、いざ登城です。登城口は民家の脇の細い斜面を上がるのでこれが一番分かりにくいかもしれません。城域に入ると下草がありませんので削平地や郭がよくわかります。
 腰曲輪がまわっている段の上に単郭の削平地があり、西側が土塁跡の高まりが残っています。その先に小さな高台があり、その先が大きな堀切になっています。興ヶ原城は比高50メートルと登るのも楽ですし小規模ですが、遺構にめりはりがついた非常に分かりやすい山城ですね。
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