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多聞城跡 登城日:(2005.02.26) 所在地: 奈良市法蓮町、若草中学校等 |
歴史 |
多聞城は、松永久秀の手により永禄三年(1560)に築城されたとされている。久秀は築城の前年に大和に入国し筒井順慶ら国衆を追い落とすと、信貴山城を改修して居城とした。多聞城を築城したのはその後のことである。 永禄七年に三好長慶が死ぬと、久秀の権勢は増大していったが筒井順慶ら大和国衆と三好三人衆とが結束し久秀に攻めかかった。久秀も対抗し、三好勢を奇襲のうえ大仏殿を焼くなど合戦は長期化していった。そんな中永禄十一年九月、織田信長が足利義昭を奉じて入京すると、久秀はすぐさまその配下となり信長勢の手を借りて攻勢に出た。しかし、元亀二年(1571)の辰市城の合戦で大敗を喫し、筒井順慶が信長に帰順すると徐々に久秀の勢いは衰退の一途をたどることになり、多聞城を信長に明け渡した久秀は、信貴山城に退いていった。 以後の多聞城は、城番として明智光秀、柴田勝家が兵を置いたり、天正三年(1575)大和守護として原直政が入城、そして翌四年には筒井順慶が大和を与えられるなど目まぐるしく入れ替わっていった。天正五年には筒井の命により多聞城は廃城となり、取り壊されてしまった。 『日本城郭体系10』新人物往来社刊参照
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資料 |
私見 |
多聞城跡は、奈良市北部に位置する佐保山丘陵にあり、現在は若草中学校、仁正皇后陵、聖武天皇陵などになっています。中学校の正門をまっすぐに入った先に城址碑がありますが、学校の敷地内に入ることはかなり慎重にならないといけません。訪問したのは日曜でしたが、正門は開かれていました。しばらくどうしようか悩んでいたのですが、たまたま社内から正門外に車で出て行く方があり、その方に会釈することで「入ることを許可いただいた」ことにして慌てて石碑だけ撮影しました(汗)。関係者の方ごめんなさい。 結構緊張しましたので逃げるようにその地を後にしましたが、現在残る遺構としては丘陵地の東部に堀切が道になっている地点と、中学校裏手に堀跡だったところを見ることができるようです。ここが多聞櫓の呼称の発祥であり、四層櫓があった城跡なんですね。感慨無量ですが、場所が場所だけにほとんど時間を使えなかったことが残念です。(^^;
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