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岩屋城

岩屋城跡


登城日:(2010.01.17)
所在地: 津山市中北上
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
岩屋城のてのくぼり 岩屋城の主郭部  岩屋城は、嘉吉元年(1441)、山名教清が赤松満祐討伐(嘉吉の変)の論功行賞により、美作国の守護に任ぜられた際に築城されたという。
 その後、応仁の乱の勃発(応仁元年、1467)に伴い、山名政清(教清の子)が上洛した虚に乗じた播磨の赤松政則によって落城し、さらに文明五年(1473)政則が美作国の守護になったことから、岩屋城には武将の大河原治久が在城した。
 永正十七年(1520)春、赤松氏の武将であった備前の浦上村宗が謀反し岩屋城を奪取、武将の中村則久を岩屋城においた。これに対し、赤松政村(政則の子)は、同年四月武将小寺範職・大河原を将として半年に及び城を囲んだものの落城せず、赤松氏の支配は終わるところとなった。
 このことから24年後の天文十三年(1544)、出雲尼子氏の美作進出に伴い、岩屋城においても接収戦が行われ、城主中村則治(則久の子)は尼子氏に従属した。しかしながら、永禄十一年(1568)頃、中村則治は芦田正家に殺害され、芦田正家は浦上氏に代わって勢力を伸ばしていた宇喜多氏の傘下に投じたが、五年後の天正元年(1573)には宇喜多直家の宿将である浜口家職が岩屋城の城主となるに至った。
 その後しばらくは比較的平穏であったが、天正七年(1579)以降、宇喜多氏が毛利氏を離れ、織田氏に属したことから再び美作の諸城は風雲急を告げるところとなり、天正九年(1581)毛利氏配下の中村頼宗(苫西郡山城村葛下城主)や大原主計介(苫西郡養野村西浦城主)らにより岩屋城は攻略され、中村頼宗が城主となり再び毛利氏の勢力下となった。
 織田氏と毛利氏の攻防は、天正十年(1582)備中高松城の開城により終了したが、領土境を備中の高梁川とすることについて美作の毛利方の諸勢力はこれに服さなかったため、宇喜多氏の武力接収戦が武将花房職秀を将として行われた。この接収戦は長期にわたり決戦の機会に恵まれず、当時備後のにいた足利義昭の調停により戦闘は収束した。
 これ以降、宇喜多氏に属することとなった岩屋城には、宇喜多氏の宿将長船越中守が入城した。しかしながら、六年後の天正十八年(1590)八月野火により消失し廃城となったと伝えられている。

 慈悲門寺跡
 岩屋山慈悲門寺跡は、円珍(814〜891)の開基によるという伝承のある天台宗の寺院跡で、「慈悲門寺」の寺号は勅賜であるという。(作陽誌)寺跡は、岩屋谷に面した尾根の上部を削平して造成され、有事の際には砦としても使用されたと考えられ、岩屋城の廃城と共に寺も廃滅したと伝えられている。
 建物等の規模・内容等については一切不明であるが、現在この地には建物礎石と考えられる転石があり、付近には瓦片や備前焼の破片等が多数散乱している。
 なお、この寺跡の周辺には多数の小規模な平坦地が多数造成されている。この平坦地の造成された時期や用途・目的については詳らかではないが、これらの占地からみて寺院関連の施設、あるいは慈悲門寺を守る砦の役割を果たしていたのではないかと推測される。
 山王宮跡・拝殿跡
 山王宮跡は、山王様(山王大権現)すなわち近江の日吉神社の祭神である。慈悲門寺の鎮守の神であったが明治44年に鶴坂神社に合祀され、現在は小祠が祀られている。
 山王宮に至る道は非常に険しかったため、一般の参拝者はこの場所にあった拝殿から参拝をしていたということである。
 龍神池
龍神池  龍神池は、嘉吉元年(1441)山名教清による岩屋城築城のおり、山名氏の本拠である伯耆国赤松池にならい、この地に池をつくり、祭神を城の鎮守として祀ったと伝えられる。
 また、この池の水は、城内の生活用水としても使用されたのであろう。

 本丸跡
 本丸跡は、岩屋山の山頂を削平して造成され、東西約60メートル、南北約20メートルの楕円形の規模をもつ。昔からこの地を本丸跡と伝えられていて、ここから山頂部にある城郭のほとんど全域を見渡すことができる位置である。
 また、本丸北側の垂直に近い断崖は、昔から「落し雪隠(おとしせっちん)」と云われ、天正九年(1581)の毛利氏による岩屋城攻略戦の時、毛利方の将中村大炊介頼宗は、決死の士32人を選び、風雨の夜この「落し雪隠」をよじ登らせて城内に突入し火を放ち、大手口方面の攻撃軍と呼応して攻めたので、堅固なこの城も遂に落城したと伝えられている。
 馬場跡
馬場跡 二の丸の大堀切  この地は、昔から土地の人が「馬場跡」と伝えている場所である。
 岩屋城の大手筋から東(津山)方面を見下ろすことのできる位置で、南北約108メートル、東西約20メートルの長楕円形の平坦面が広がり、数か所の集石がある。
 本丸付近の櫓の中では一番大きいもので、備前焼等の土器片も広範囲に出土をみることから、有事の際には多数の兵員が駐留していたと考えられる。
 三の丸跡
 この地を、昔から土地の人は「さんのうまる」と呼んでいることから、おそらく「三の丸」で間違いないであろう。
 三の丸は三ヶ所の段状をなす郭で、頂上の段から備前焼の大小の破片二個体分以上が採取されている。
 また、この地は大手方向をはじめとする南への眺望が大変すばらしいところである。
 てのくぼり
 土地の人が「てのくぼり」と呼んでいる畝状空堀群である。東側の谷に向かい、幅約5メートル、深さ約2メートル、長さ100メートル以上の竪堀が十二本掘られている。有事の際、攻撃側の横移動を妨害するなど山腹防御のうえで非常に有効な施設なので戦国時代の城郭において盛んに取り入れられた。

『岩屋城跡案内板』より

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資料
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私見
城の北東部にある慈悲門寺跡 水門跡  岩屋城のある岩屋山は津山市の西端、真庭市との境に位置しています。中国自動車道「院庄」インターを降り、そのまま高速道路と並行して走る国道181号線(出雲街道)で西へ。途中の道の駅『久米の里』で城の資料を貰いましたが、いつもストックされているのかは不明です。事前に『美作国の山城』なり、なにかの書籍から城の縄張り図が描かれているものを持参するといいでしょうね。またここは城を取り囲むように築かれた陣城も見所ですので、時間の使い方が大変悩ましい城贅沢なところです。
 岩谷簡易郵便局がある路地を北上していきますと、脇にいくつか屋敷跡を示す標柱が確認できます。とりあえず帰りに確認することにして、そのままスルーします。すると約1キロほどでしょうか、左手に駐車スペースとトイレ、そして案内板が設置されている場所に出ました。ここから登って行くことにします。いきなり急な階段がまっすぐに続いていることに驚きです。こんな形でこの先整備されているんだとしたら嫌だなあ・・。でもこの階段はすぐになくなりますのでご安心を。ただ、階段の右手にも段々と郭が連なり、それぞれ虎口を持っていることがあとで確認した縄張り図に載っていましたのが心残りです。
 とりあえず広い郭に出ます。慈悲門寺跡ということですが、城の南東部の重要な拠点であったことは間違いないでしょうね。かなり浅くなっていますが堀跡らしいものと、石がごろごろしていました。歩みを進めます。しばらく山道を登って行きますと山王宮の案内板が設置されていました。どこにあるんだろうとキョロキョロして見つけた先は・・なんと斜面を下りて、並行移動していくんですね!あんなところにあって地元のお年寄りはお参りされてるのでしょうか。とまぁ余計なことを考えつつ、少しずつ登って行きます。しばらくくねくねと登って行った先に水門跡があり、いよいよここから城跡だと感じさせるものがあります。(実際はすでに城域内なんですけどね)
現在も水を湛える井戸 大きな堀切  右手に高い三の丸の切岸をみあげつつ、進路を左にとり、本丸を目指します。ちょうど馬蹄形の中央にある本丸に行くためには左右にそびえる郭群の下を通過しないといけないのですが、上から狙いうちされそうな錯覚に襲われ、何度も不安になって見上げてしまいました。それだけ入り込んでしまえるいいお城だということですよね。
 そして本丸手前には2つ目の井戸がありました。こちらはいまだ水を湛えており、その水を守るためなのか蓋がしてあります。知り合いがこの水を実際に飲んだことを聞きましたが、飲めるみたいですね、ものすごいことです。今も普通に使える井戸なんて・・!(でも自己責任でお願いいたします。)
 ようやく本丸ですが、周囲を完全に見渡せる実にすばらしい眺望が疲れを吹き飛ばしてくれます。と、同時にこの周囲が全て敵が対陣していたんだと思えば恐怖ですね。完全に丸見えですから・・。本丸の構造は両翼に大きな郭を何段もの段差を持たせた広がりを持っていますが、土塁や石垣はほとんどありません。また堀切もなく、極めてシンプルなものです。が、ここに来るまでがかなり堅牢ですからこれはこれで全然問題ないのでしょう。でも実際には「雪隠落し」から登ってきた決死隊によって落城していますからダメダメなんですけどね。
真っ直ぐ伸びたてのくぼり  本丸から南へ馬場へと進み、そこから南の尾根先へといくつもの郭が続いています。南西へと延びる郭群には大きな堀切がいくつも造られていますので登ったり降りたりが好きな方にはお奨めです。私もテンションがあがりました(笑)。
 十分すぎる長文になってしまいましたが、まだ岩屋城の魅力の半分も語ることができていないことに愕然としました。岩屋城は周囲が敵の陣城によって包囲されたことは何度も書いてきた通りなのですが、唯一といっていい北側だけは高低差がほとんどない状態で、対峙していることになっています。実際城の北側の細い尾根筋を歩いて、はって場陣城に行ってみましたが驚くほどに近距離に造られていました。そのせいもあるのでしょうか、北側に睨みをきかせる二の丸には竪堀、堀切がいくつも造られ、また郭には土塁で囲われています。まさに臨戦態勢といった様相を見せてくれます。そして一番の見所として、城の北東斜面には非常に長い「てのくぼり」竪堀群がすさまじい存在感を見せてくれています!「ここまでする必要があったのか?」とただただ茫然とするばかりです。ここまで方角によって違う顔を見せてくれる城も珍しいですね。興味が尽きないです。岩屋城はかなりお奨めですよ。
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