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国吉城跡 登城日:(2000.05.04) 所在地: 川上郡川上町 |
歴史 |
備中松山城(城主三村元親)の支城である国吉城(城主三村政親)は、毛利輝元の総大将小早川隆景の率いる二万の兵に、天正二(1574)年十二月大晦日の夜、遂に攻略された備中兵乱の激戦を伝える中世の山城である。
「備中府誌」によると、安藤太郎左衛門入道元理が北条家からこの地を地頭職として宛行われた。この城を創設した時期は鎌倉期以前と思われる。兵乱後は毛利から口羽中務大輔春吉が在城。また関ヶ原合戦後に毛利が萩に移封となってからは、稽(?)谷内膳正武則、八兵衛安長など慶長七(1602)年から同十語(1610)年まで居城したが、翌十六(1611)年に徳川幕府直轄領となったのを機会に廃城となった。 この城は、「く」の字状に屈曲した横矢斜の連郭式山城である。館跡と思われる地頭「堀ノ内」から北西約1.5キロ離れた標高419.6メートルで、谷田よりの比高約140メートル。付近の地名に陣山、逆茂木谷、礼場、掛谷、水ヶ迫、的場ノ段、小城山、玄蕃ヶ鼻等がある。城の縄張りは総延長180メートルの城郭で、南北に連なる八曲輪と、西側より南側へ回りこんでいる通称「馬場」と呼ばれている脇郭で構成されている。最北の郭を「一ノ壇」と仮稱すると、この郭は長さ70メートル、幅15〜18メートルで、その北端に長さ7メートルの小規模な土塁がある。「二ノ壇」は「一ノ壇」より0.5メートル上にあり、郭面は東西15メートル、南北に24メートルの規模でここが主郭である。その理由は城郭全体のほぼ中央に位置すること、城内に入る道が「一ノ壇」の東辺に沿って、「二ノ壇」に通じていることなどによる。脇郭の構造の特色は、郭面からかなり離れた低い位置にあり、また郭面からの距離は15〜30メートル、比高は20メートル以上もあり、この施設が部分的、限定的なものでなく、峰続きの北側から連郭の西辺を直線的に走り、南西角に折れをもって、南辺まで延びる大規模なものである。したがって城内の奥行を増し、攻勢、防禦の両面の機能を一層高めている。 『国吉城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
備中松山城にいく途中で寄ってみただけの国吉城跡でしたが、とんでもないですねココ。とんでもなく山奥です。それに高い・・。 でも城跡近所でも人家があるのには驚きです。(笑) この国吉城は川上郡川上町立の史跡です。しかし城跡の手前に広い駐車場とトイレ、さらに城跡登城口にもトイレが完備しています。やはり川上町にとって国吉城はそれだけ重要なものなんですね。 登城口、といってもちょっとした傾斜の登り道なんですが、すぐに右へカーブしています。そのまままっすぐに山肌に沿って城が存在していたようですね。私は勢いよく駆け上っていっていたのですが目の前に突然大きな鳥が出現しました。「ギャッ!」私にはそう聞こえた鳥の叫びが一層驚かされました。全体が茶色でピンと張ったようなしっぽをもつその鳥は野生のキジでした。キジも驚いたんですね。めったに人も来ないでしょうし。 キジが逃げ去ったあとはそのまままっすぐに竹で造られた柵が復元されています。そしてその中には木で組まれた簡単な物見台が同じく復元されています。観光を意識しすぎて過度にコンクリート製の天守を復興しているところもあるというのになんとすがすがしい復元の程度なんでしょうか。穿った見方をすれば川上町の史跡だからそれほど予算がないんでしょうけどね。 そしてさらに奥には本丸跡にあたる国吉神社があります。しかし私は神社には足を踏み込めませんでした。蜂でした。熊蜂の大軍がそこらじゅうを飛び回っていたのです。羽音が五月蝿いくらいの大軍です。ま、むやみに人を刺したりしないでしょうけど、でも恐ろしいです。迷わず退散しました。
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