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備中松山城 登城日:(2000.05.04) 所在地: 高梁市、臥牛山 |
歴史 | ![]() 元亀三年(1572)、将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると、三村元親は東方の織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻す。天正二年(1574)冬から翌三年夏にかけて毛利・宇喜多連合軍と三村勢との間で備中松山城をはじめとする備中諸城をめぐって激戦が展開される。いわゆる「備中兵乱」で三村氏は滅ぶが、この頃には備中松山城の本城は小松山へ移り、臥牛山一帯は大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸・馬酔木丸などの出塚・出丸が設けられ、全山が一大要衝となっていたことが記録などからうかがえる。また居館である御根小屋も現在の場所(臥牛山南西端 現高梁高等学校用地)に設けられていたようであるが、本城とともにその縄張りや建物などについて詳細は明らかではない。 関ヶ原の合戦後、全国の実権をほぼ掌握した徳川家康は、毛利領の中で最も東にある備中松山城に国奉行として小堀正次・政一(遠州)父子を赴かせた。小堀氏は頼久寺において政務を執っていたが、政一は、慶長十年(1606)に御根小屋と備中松山城の修築を行っている。その後、政一は所替えとなり、因幡国鳥取から池田長幸が入城。その子長常に嗣子がなく廃絶、常陸下館から成羽を経て、寛永十九年(1642)、水谷勝隆が入城する。 ![]() ◆大松山城跡(標高約470m) 臥牛山の主峰「大松山」山頂。延応二年(1240)有漢郷を築いたのが備中松山城の創始と伝えられる。現在も随所にその跡をとどめる。 ◆天神の丸跡(標高約480m) 臥牛山の支峰「天神の丸」山頂。中世〜戦国時代には大松山城の出丸として積極的に利用されていたことが知られているが、近世になって「天神社」が営まれ、信仰の対象となっている。現在もその社殿の跡と手水鉢が残る。 ◆小松山城跡(備中松山城 標高約430m) 小松山の山頂を中心に築かれた近世城郭。一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この小松山城を指す。城内には天守・二重櫓・土塀の一部が現存しており、昭和十六年に国宝(昭和二十五年 文化財保護法の制定により重要文化財)指定を受けている。平成六年度から、本丸が復元整備され本丸南御門をはじめ東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元されている。 ![]() 古くは、「松山」と呼ばれていたが、江戸時代に入り、牛が伏せた姿に似ているところから、「臥牛山」と呼ばれる。来たから「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の4つの峰からなり、東北の一部が連なるほかは、そそり立つ急斜面の断崖を要した自然の要塞。ほとんどが自然林として残り、多種多様な植物相を呈する。立地が岡山県の中部地域にあることから、南方系と北方系の植物が混在する。動物も豊かな餌植物と地理的条件から多種多様なものが混棲し、古くからニホンザルの生息が知られる。昆虫類も豊富で、158科1695種が確認されている。 重要文化財「備中松山城」を含む国指定史跡、国指定天然記念物生息地、また高梁川上流県立自然公園「臥牛山特別地域」の指定のほか、「21世紀に残したい日本の自然100選」の一つとしてものこ地が選ばれている。 『備中松山城案内板』より
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資料 |
◆城主一覧
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私見 | ![]() 現存する天守ということで地元の方もずいぶんとご苦労もあるのでしょうね。まず、車は無料駐車場に置いて、そこから臥牛山へはシャトルバス(往復300円)での移動になります。もちろん徒歩での登城は可能ですが、小一時間ほどかかると言われたので止めときました。 バスを降りてそこからはさらに約20分ほどの山道を登っていきます。私にとってはなんてことない山道でしたが、こんな山道しか登城口がないってのもいいですね。あまり整備された道をつくってしまうってのは単に城跡を壊すことになりますしね。天守が見えるまでにも途中にいろいろと見るべきところはあります。私が一番興味を引かれたのは切り立った岩の上に石垣が組まれてその上に櫓跡があるということでした。まさに天然の地形をうまく城にとりこんでいると言えます。 天守に入るには300円を支払います。小さな天守だということは分かっていましたが、それでもこれだけ高いところにあるのならこの程度で充分な高さだと分かりました。 最期に、ここへ訪れたのなら必ず門をくぐってすぐ左にある、無料のお茶を頂くことにしましょう。私の時は生ぬるいお茶でしたが、なぜか飲むと落ち着きますよ。
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