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鳥取城跡
登城日:(1998.09.06→2008.01.01)
所在地: 鳥取市東町2丁目
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
美しい鳥取城の石垣 復元された鳥取城中仕切門  鳥取城は寛永9年(1632)から明治4年(1871)までの間、因幡・伯耆二国32万石を領有する鳥取藩池田家の居城であった。
 鳥取城の成立起源はあまり明確ではない。江戸時代前期に小泉友賢が著述した『因幡民談紀』には天文14年(1545)に布施天神山城を居城とする因幡守護山名誠通が但馬山名氏の勢力に対抗するため出城として鳥取城を築いたのが最初である旨を記している。
しかし小泉友賢の説には資料的裏付けはない。近年の研究では、鳥取城は天文12年(1543)ごろに因幡守護山名氏と但馬守護山名氏とが対立する状況の中で但馬側勢力が布施天神山城を攻略するための拠点として築いたものであるという説もうまれている。

 主要な城主の変動は次のとおりである。
武田高信    永禄・元亀年間(1558〜1572)
山名豊国    天正元年(1573)〜天正9年(1581)
宮部継潤・長房 天正9年(1581)〜慶長5年(1600)
池田長吉    慶長5年(1600)〜元和3年(1617)
池田光政    元和3年(1617)〜寛永9年(1632)
鳥取藩池田家  寛永9年以降

「お左近」の手水鉢  鳥取城諸郭の建物は明治12年、政府の指示で取り壊され現在のような姿となった。
 この城は戦乱の時代に戦闘防備を重視した郭と後になって城地を拡げ増改構築した郭が一体となって複合しており中世遺構から近世遺構への移行の経過を如実に残している。

◆天球丸跡
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、鳥取城の城主になった池田長吉の姉、天球院に由来する曲輪(平地)である。若桜鬼ヶ城主山崎家盛の夫人であった天球院が、山崎家を去って長吉のもとに奇寓し、この曲輪に造られた居館に住んだことから名付けられたという。
 天球丸には、風呂屋御門と呼ばれる門、東側隅に建てられた三層の櫓などがあったことが古絵図などから知られている。三層櫓は享保5年(1720)の大火(石黒火事)によって焼失し、その後は再建されることはなかったようである。幕末頃には、武術の稽古所、御蔵が建てられたことが記録に残されている。
 平成2年からの石垣修理に伴う発掘調査で、古い石垣や石段、三層櫓や御蔵の礎石が発見された。現在地の地下から発見された石垣、石段はこれまでその存在が知られていなかった遺構である。高さは約5メートルで、長吉入城以前に構築された小規模な曲輪をめぐる石垣の一部である。その後、大規模な曲輪の拡張とともに、天球丸の前身となるこの石垣は埋められ、現在に残る曲輪が造られたものと考える。
 発掘調査では、瓦、唐津焼、伊万里焼等の陶磁器、釘、鎹、簪、煙管等の金属製品が出土した。また、少量ではあるが中国、朝鮮半島製の陶磁器も発見されている。
鳥取城三階櫓跡 現在も復元工事が進む鳥取城 ◆「お左近」の手水鉢
 近世城郭としての鳥取城の基礎は、池田長吉の時代に築かれました。この時の工事にあたって、池田長幸(長吉の子)夫人の侍女・「お左近」の活躍はめざましいものだったようで、このお左近の手水鉢を石垣に築きこんだところ、難工事であった三階櫓も、無事完成したという伝説が残されています。
 昭和三十八年、この「手水鉢」と思われる石材が発見され、三階櫓石垣の修理に際して、もとの位置に復元されました。
◆吉川経家の鳥取籠城と切腹
 天正九年(1581)の羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦であった。(現在残る城跡は、慶長年間の池田長吉造営以後のものであり、経家の在城時の遺構は不明である。)この戦いは、天下統一をめざして中国地方を征討いようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で、展開された。
 織田信長への服属の意を示した鳥取城主山名豊国の方針を不満とした森下道誉・中村春続らの因幡国方衆は、豊国を追放して、毛利氏に鳥取守城のための城将派遣を要請した。天正九年三月十八日、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として鳥取城に入った。
 同年七月十二日に、信長の派遣した武将羽柴秀吉が鳥取に到着した。鳥取城背後の東北の山頂(現在の太閤ヶ平)に本陣を置き、前面の袋川沿いに各陣を布いて、二万余の軍勢により兵糧を絶つ包囲作戦を展開した。
 これを迎え撃つ鳥取城の兵力は、芸州毛利氏よりの加番衆四百と因幡国方衆千余であった。毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後三ヶ月過ぎるころには、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という状況となった。
 ついに十月二十五日、吉川経家は城兵を助けるために開戦し、自身は城中広間で切腹した。時に三十五歳であった。
 死の前日、十月二十四日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記している。織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていたのである。 水を湛える鳥取城の堀  本丸下に姿を見せた古い石垣  本丸下に姿を見せた古い石垣  鳥取城本丸跡

『鳥取城跡案内板』より

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資料
 

私見
鳥取城本丸の裏手はかなり石垣が崩れています。 登城道脇には巨大な石がごろごろしています。  9年ぶりの鳥取城は太閤ヶ平経由での登城となりました。9月はまだ少し蒸し暑く、ペットボトル2本は少なすぎる装備だと気づいたのは登りはじめてそうかからない時間帯です。約2キロの道程が延々と続くかのようにも感じたのも気のせいじゃなかったはず。しかし太閤ヶ平の遺構に触れると疲れも吹き飛びますね!三木城合戦での教訓を活かしたのがこの鳥取城攻めとされますが、私にとってはまだまだ鳥取城周辺は未開の土地。とりあえず太閤ヶ平だけは見ておかないととやってきましたが、予想以上によかったです。
 さて、そのまま尾根伝いに久松山を目指します。最初はどこから行けばいいかふらふらしましたがなんとかイメージ通りの登山道を見つけ、ただまっすぐに進むのみです。すでに水は底をついてしまいました・・山に行かれる場合はくれぐれもこのようなことのないよう十分にお気をつけください。
 いつからでしょうか、鳥取城の城域に入ってきました。大きな岩がごろごろしている箇所が増えてきましたよ。かなりの広さですね、しかも要所に砦や郭が配置され、しかもその多くはどうやら夏場でも遺構が見られるようです。素晴らしいです。さきほどの太閤ヶ平では少し藪が残念でしたが、久松山は環境が違うんでしょうかねぇ。
 本丸を経て一気に下山し、仁風閣で100名城のスタンプをゲットで鳥取城を満喫できました。道中あちこちで工事中で入れないところがあり驚きました。どこも100名城のスタンプラリーが始まるまでは工事ラッシュでしたが、ここ鳥取城はまだまだ工事は続くようです。それだけ城に力を入れているということでしょうから、時折様子を見に来る楽しみができたと思うことにしましょうかねぇ。
雪化粧した仁風閣。 やっぱり雪が似合いますねぇ  さっそく翌正月の元旦、朝は三木城合戦の秀吉の陣に立ち寄り、その足で雪積もる鳥取城を見に来ましたよ。やっぱり雪化粧した姿のほうがしっくりきますね。膝までうまる雪の中を行軍してみましたが、危ないので途中で断念しました。雪が苦手な私としては非常に珍しい雪のお城鑑賞となりました。
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