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太閤ヶ平

太閤ヶ平跡


登城日:(2007.09.16)
所在地: 鳥取市栗谷町、小西谷、東町二丁目他
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
太閤ヶ平の主郭の土塁  天正九年(1581)の羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦であった。この戦いは、天下統一をめざして中国地方を征討しようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で展開されたものである。
 信長の派遣した部将羽柴秀吉は、姫路から但馬口を経て天正九年七月十二日鳥取に到着し鳥取城背後の東北の山頂(太閤ヶ平)のこの位置に本陣を置き、左右両翼と前面の袋川沿いに各陣を布いて、二万余の軍勢により兵糧を絶つ鳥取城包囲作戦を展開した。
 太閤ヶ平(本陣山)は、西方前方に鳥取城を望み、左方に芳心寺に至る一帯の山々をひかえ、右方にははるかに円護寺・覚寺・浜坂・賀露に至る一帯を見下し、総本陣としては最も適した場所であった。
 これを迎え撃つ鳥取城は、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として守備しており、その兵力は芸州毛利氏よりの加番衆四百と因幡国方衆千余であった。
案内板にある太閤ヶ平の縄張り  毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後三ヶ月過ぎるころには、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰い候」という状況となった。
 ついに十月二十五日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹した。時に三十五歳であった。死の前日、十月二十四日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記している。織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていたのである。
 この太閤ヶ平には、当時の鳥取城攻防の歴史を物語るかのように、土塁と空濠を廻らした曲輪の跡が厳然として残されている。
 また、この一帯は鳥取自然休養林であり、摩尼寺に至る中国自然歩道も整備され、広く市民の憩いの場として親しまれている。

『太閤ヶ平跡案内板』より

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資料
 

私見
道路脇に空堀跡が残っています。 本陣山の頂部はかなり破壊されてますが・・  鳥取駅を降り、駅前のバス停から100円の「くる梨」赤バスに乗り12番停留所「樗谿公園やまびこ館前」で降ります。ここから整備された道をひたすら登っていくと本陣山の山頂部に広がる太閤ヶ平の遺構にお目にかかれるようになります。時折脇道に入ってショートカットをしながら小走りに駆け上がってましたが、やはり無理はしないほうがいいですね。しんどいです(^^;。
 現在は山頂までコンクリートで整備された道が続いていますので、夏場でも訪れやすい山城です。時折すれ違う人と「こんにちは」と挨拶するので気を抜けませんよ(^^;
 手に『鳥取県中世城館分布調査報告書 第1集』からコピーしてきた縄張り図を持ち歩いていると、山頂に近づくにつれて時々脇の斜面や藪に飛び込んだりしたくなってきます。太閤ヶ平は山頂部に残る郭が周囲を土塁が廻り、北と東に通路になっています。その外を横堀がぐるりと残っています。整備されたコンクリート道の脇にまで残っていますからかなり遺構を破壊してしまっているのがわかります。でもまぁ、十分すぎるほど当時の状況がわかりますので私は満足です。
 でもやはり冬場に行かれることをお奨めします。夏場でもそれほど大変じゃないので遺構はわかるのですが、きっと冬場だと下草がなくなって散策しやすくなってるんでしょうね。こんどは周囲の砦群にまで手を広げて見て回りたくなりました。
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