歴史
|
下館の地は今から一千余年前の天慶三年(940)平将門が騒乱を起こした時、之を平定するため藤原秀郷(俵藤太)が上舘、中舘、下館の三館を築いた所であるといわれている。中舘(伊佐城)はここから1,9キロメートル北方にあり、南北朝の争乱の際、伊達行朝(当地出身、仙台伊達家の祖)が南朝のために籠城奮戦した史実で有名である。上舘(久下田城)は同じく6.5キロメートル北方にあり、戦国時代の勇将、水谷蟠龍斎政村の居城として知られている。
当下館城は、室町時代の中頃文明十年(1478)水谷勝氏が始めて築城したものである。水谷氏は以後勝国、勝之、勝吉、治持と続いて次第に勢力を拡張し、次の六代政村の頃は五万石を領するに至ったが、政村は下館を弟勝俊に譲って、自分は前記久下田城に移った。
次の勝隆の代になって備中に移封となり、水谷家頼房の長男頼重(光圀の兄)が新たに五万石の城主として下館を賜ったが、三年後には讃岐高松十二万石を賜って栄転、下館を去った。以後、増山正弥、黒田直邦とたびたび城主が変ったが、享保十七年(1732)石川総茂が二万石の城主として着任してからは、代々石川氏の領分として九代百三十七年間此の地を支配し、明治になって廃城となった。
『下館城跡案内板』より
|