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大松山城跡


登城日:(20076.01.09)
所在地: 高梁市内山下
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
倒木被害を受けた大池とその石垣 大松山城を吊り橋から望む  臥牛山にはじめて城を築いたのは仁治元年(1240)相模の豪族であった三浦氏の一族秋葉(秋庭)三郎重信であったといわれている。承久の乱の功により北条方であった重信は有漢の地頭に任ぜられ、居館と台ヶ城を築城した。また、出城として大松山城も築いたがその時は砦程度のものだった。
 元弘元年(1331)秋庭氏は勢力の衰えにより備後の三好一族である高橋九郎左衛門宗康に従うようになり、高橋氏に城を明け渡した。この時には小松山まで城域が拡張されたようである。「備中府誌」には大松山城に九郎左衛門が、小松山城には大五郎任仁が拠っていたとある。地名を「高橋」と呼んでいたのを「松山」に改めたのはこの時であった。
 正平十年(1355)、高橋氏にかわり高越後守師秀(高師直の兄)が備中守護として赴任してきたが、器量不足の為に執事であった秋庭備中守重明に城を追われ、以後秋庭氏が居城することになる。やがて永正六年(1509)に最後の城主元明が死去したのを機に松山城を去り有漢に引きこもった。そこで上野兵部少輔頼久が守護代として入城した。頼久寺が再興されたのはこの時であり、寺の名が城主にちなんでいることがわかる。
同じく大池の石垣  天文二年(1533)、上野氏は出雲の尼子氏の勢いを借りた猿掛城主庄備中守為資に滅ぼされてしまう。
 次いで城主となったのは成羽鶴首城主三村氏である。以後目まぐるしく城主が入れ替わっていくことになるが、松山城と重複するので以降は松山城の歴史を確認いただきたい。

『重要文化財備中松山城』高梁市刊参照

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資料
 

私見
広い削平地が続きます。 井戸跡です。  備中松山城で雲海が見れるということを聞き、その友人に乗っけてもらい高梁市にやってきました。今回はシャトルバスであがるルートではなく、隣接する山を上まで車であがりそこから歩いて大松山城に到達するというルートです。途中ビュースポットがあり、少し見下ろすような角度で松山城を見渡すことができています。雲海のほうは微妙な状態でしたが、こんなポイントがあったのかと感激でした。また歩いて大松山城まで700メートルということで高低差もあまりなく遊歩道を行くだけというのも目からうろこ状態です。大松山城まで見ていこうと思ってる方は絶対このルートがお奨めです。(これといっても伝わらないのですがw、地図を広げていただき城の東から北へと細い道が表示されていると思います。それがこのルートになります。)
 さて、この日の大松山城は雪が残る状態で台風の被害が今だ残り倒木が激しく登城道を封鎖していました。慎重に倒木の上を歩きながら大池の前までやってきました。夏に来た時よりも見えやすくはなっていますが、つらい状況であるのは確かです。横で倒木撤去の方が働いておられますが、私はただ見守ることしかできません(^^;
僅かに顔をのぞかせる石垣?  大池の北には横堀遺構もあるようなのですが倒木とヤブで見えません。雪も・・。仕方なく北西に伸びる尾根上の郭へと移動します。大きく分けて3つの郭から構成されている大松山城。1つ目と2つめの郭の間には井戸が残っています。岡山県の山城ってほんときっちり井戸があるんだよなぁと何度目かの確認作業後、3つ目の郭に到達です。そこから先にも何段かの小さな削平地が続きます。竪堀や土塁や堀切があるわけじゃなくだだっぴろい城域がだら〜んと続いてる印象を持ちました。広いんだけどあまり手のこんだ防禦意識が感じられないですよね。やはり大松山の主郭は天神丸のほうなんでしょうかねぇ。
 さて、この3つ目の郭からはなんと遠めに松山城が見えています。普段目にしない角度からのお城なのでちょっと興奮してなんとか写真に納められないかと探し回ってしまいました。結局木に邪魔されて断念。でもそのかわり斜面に少しですが石垣が顔をのぞかせていることに気づきました。そういえば大池へと吊り橋から直登したときも3段ほどでしたが石垣がありました。一見大池に使われているものよりも古そうなものでしたが・・。
相畑にある車井戸跡。 天神丸跡です。  続いて今度は天神丸へ登ってみました。天神社の遺構なのかお城の遺構なのか判断に悩むところですが、さきほどまでの削平地と比べると周囲との高低差があることや城内でも最高地であることなどからもここが主郭らしい雰囲気を持っていますね。そのまま せいろうが壇、そして相畑へと続きます。この相畑、小さな削平地が何段にも重なっているのですが一面石垣なんですよ!ここだけが石垣造りというのがかなり不自然な気がするのですがいつの頃のものなんでしょうか。
 今まで小松山城までしか行かなくて、なかなか大松山城を散策することはありませんでしたが、小松山城に劣らない非常に面白い山城なんだと実感しました。かつてこの全山が城として機能していた時の姿はどれだけ壮大なものだったんでしょうね。県内の三村氏の城を他にも探してみたくなりました。
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