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久世代官所跡登城日:(2006.08.21) 所在地: 真庭市久世 |
歴史 |
享保十二年(1727)、津山藩の減地により、美作西部五万石が幕府直轄地(天領)となり、久世に代官所が置かれました。 代官所は、津山藩が年貢米の積み出しのために設けていた御蔵の敷地を転用しました。以後、文政元年(1818)津山藩に復帰するまでの約90年間、作西地域の政治的中心としての役割を担いました。 「久世陣屋写図」によれば、代官の官舎兼執務所である御殿や代官の部下の住まいである長屋などが配置されていました。 ◆早川八郎左衛門正紀 正紀(まさとし)は元文四年(1739)に江戸で生まれる。第二十代の代官として天明七年(1787)六月に久世着任以来、享和元年(1801)十月関東地廻役代官に転ずるまでの十四ヶ年在任した。 在任中、正紀は年貢納取を従来の「定免」方式から「検見」方式に切りかえることによって、年貢を無理なく収取する一方赤子間引の禁止や生活の質素倹約を奨励し、庶民の教育のための久世教諭所と典学館の建設を行った。また現在、国の天然記念物に指定されている「虎斑竹(とらふだけ)」の保存にも力を入れ、その自生地を保護した。このように、正紀は久世代官として在任中数多くの善政を施し、管下百姓達から名代官と仰がれ、文化五年(1808)十一月十日六十九歳で病没した。 『久世代官所跡案内板』より
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資料 |
私見 |
久世代官所跡へはJR姫新線「久世」駅を出て、そのまま真っ直ぐ南下。国道181号線を越えて、重願寺のすぐ南にある小さなスペースに早川八郎左衛門正紀の像と案内板が置かれています。 森氏によって始まった津山藩でしたが、元禄十一年(1698)から結城秀康を祖とする越前松平家が入封しました。享保六年に家督を継いだ浅五郎が16歳にて歿したために、白川新田藩の松平長煕を迎え家督を相続させたのでした。しかしその際に知行は10万石から5万石に半減したのでそこで天領として久世に代官所が必要になったわけです。松平氏の津山藩ではいくつかの一揆が起こっており政情が不安定だったようですね。それに反して天領では名代官がいたことはなんだか意外でした。早川正紀が第20代の代官ということでもわかるように任期も長くなく?(でも早川氏は14年もやってるし)好き放題やってたんじゃないのかなぁと思ってしまいます。 「そちもワルよのう。」「お代官様には叶いません。」ってすっかり時代劇の影響を受けてるんですね、私(笑)。
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