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三石城跡
登城日:(2003.01.03)
所在地: 備前市三石2670番地外
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
三の丸手前の石垣 三石城登城口  三石城は元弘三年(1333)に、地頭大和次郎宣祐が築城したとされている。その後浦上宗隆が備前守護代として城主となる。
 嘉吉元年(1441)、主家の赤松満祐が将軍義教を殺害したことで、備前守護職は山名氏に移った。が、応仁元年(1467)、赤松政則が守護職に復帰すると浦上則宗も守護代として復帰することができた。
 文明十六年(1484)には、山名氏が三石領へと攻め入ったが、これを浦上基景・則国らが撃退した。やがて浦上氏は主家を上回る力をつけていくことになっていった。
 則宗の孫である村宗は赤松義村と対立し、そのため永正十五年(1518)、義村は三石城を攻め立てたが逆に大敗を喫してしまう。さらに勢いに乗った村宗は大永元年(1521)、赤松義村を室山城にて幽閉し自害させるまでになった。  村宗の子政宗は居城を室山城に移し、三石城を弟である宗景・国秀らを置いた。しかしその宗景が自立への動きを見せたため、政宗は急ぎ三石城を奪取し、宗景は天神山城へ、国秀は富田松田城に移り、相争うこととなる。
 そんな中、村宗・政宗父子が龍野の赤松政秀に攻め滅ぼされたため、三石城は天神山城にいる宗景のものとなった。が、それも長くは続かず享禄四年(1531)宗景の備前経営が終了したのを機に三石城は廃城となったのであった。

『三石城の栞』参照

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資料
 

私見
本丸跡 今も水が残る千貫井戸  少し前車で三石城にやってきたときは深谷の滝のあるところを経由して林道をあがっていったのですが、途中で雪のために断念しました。今回はそのリベンジにあたります。
 JR「三石」駅を降り、左折ししばらくいくと右手に三石城登城口を示す案内がありました。それを右折すると個人宅前に『三石城の栞』がおいてあり、自由にいただけるようになっています。ありがたく頂戴し、そのまま登城口へ。
 三石城跡は標高291メートル山上にあります。登城道は1本道でわかりやすくしてあり、途中急峻なところにはロープが張ってありそれを頼って登っていけるようにしてあります。栞の設置といい、こうした整備といい、地元の方のご努力にはただただ頭が下がります。
 30分ほどいくと三の丸へと向かう道と大手とに別れる場所に出ます。前者は本丸への近道と書かれていますのでついついそっちを選択してしまいますが(私も)、大手に向かわれたほうがいいでしょう。立派な石垣と掘跡の迫力に魅了されるはずです。
 さて、近道ルートでは井戸跡がいくつかあるのを見ながら三の丸、二の丸、そして本丸へと続きます。本丸には軍用石がごろごろ散乱しててやけに多いのが目につきます。
 また、特筆すべきは千貫井戸と呼ばれる井戸なのですが、なんと現在も水が溜まっています。現代でも井戸の役目を立派に果たしているなんて驚きじゃないですか。せっかくなので当時の雰囲気を味わおうと井戸の水を飲んでみようか、とまではさすがに思いませんでしたが・・(^^;
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