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美和山城跡登城日:(2010.01.17) 所在地: 津山市二宮 |
歴史 |
美和山城は、古墳を利用して築城されたが、築城年代は不明である。築城者についても立石中務丞漆高国あるいは立石中務丞高志の名があげられている。明応七年(1498)三星城の後藤勝国が美和山城を攻めた際、城主立石景泰は城の東に位置する笠松山に兵を置いて反撃した。四年後の文亀二年(1502)に後藤勝基と金室山城(勝北町)の浦上行重が攻めよせ、城主立石久朝は自刃、城は落城した。 『日本城郭体系』新人物往来社刊参照 ◆国指定史跡 美和山古墳群 美作地方最大の前方後円墳を含む古墳群です。北から一号墳(前方後円墳・全長約83メートル)・二号墳(円墳・直径約40メートル)・三号墳(円墳・直径約40メートル)の三古墳で構成され、地元では、伝説にもとづきそれぞれ胴塚・蛇塚・耳塚と呼びならわしています。 いずれの古墳も盛り土の表面を人頭大の河原石でおおい、二号墳・三号墳からは、円筒形の埴輪破片が発見されています。 その後埴輪破片や一号墳の墳形などからみて、これらは古墳時代前半期(4〜5世紀)にこの地域一帯で勢力をのばした豪族の墓と考えられます。 またこの地には、戦国時代(15〜16世紀)に美和山城が築かれていました。 一号墳の前方部前面から後円部後方まで、東西に土塁状の遺構が残されており、一号墳北側のくびれ部に井戸跡もあります。これらはその美和山城に関連する遺構でしょう。 『美和山古墳案内板』より
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資料 |
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私見 |
古墳には興味のない私ですが、古墳を利用した中世城郭があったとなると見に行かないわけにはいきません。美和山古墳群の中にある一号墳(胴塚)は最高所にあり、また最大の規模を誇る古墳でした。案内板によればこの古墳の前後に土塁をつなげて遮断壁のようにしたとあります。古墳の奥に井戸があったことから城は南側を向いていたのでしょう。とは言ってもシンプルすぎる構造ですのでとても堅牢とはお世辞にも言えないような簡素なものに思えます。現在はここから遠目に見える津山城を楽しめることが一番のポイントだったりするかもしれません。(^^;
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