城めぐドットコム HOMEへ Check   Twitterでつぶやく  

妙福寺ノ上陣城

妙福寺ノ上陣城跡


登城日:(2010.01.17)
所在地: 津山市中北上
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
◆日蓮宗岩谷山妙福寺 由緒
中心に位置する郭の土塁、但し改変されたらしい 陣城の麓にある妙福寺  日蓮宗岩谷山妙福寺の開基は文明元年(1469年室町中期)日了聖人によるものであります。
 当初は坪井上福本の「寺山」にあったものが天正十二年(1584年桃山中期)花房助兵衛職秀(津山市荒神山城主)により現在の地に移されました。
 妙福寺は岩屋城と関係は深く天正十年(1582年)には本能寺の変があり続いて備中高松城の落城、この時の城主は中村大炊介頼宗(毛利方)であった。頼宗は元来毛利方であり、美作には毛利恩顧の者は多く死をもって忠誠を表わすことを決意していた。
 一方宇喜多秀家は大軍を作州に送り天正十二年三月花房助兵衛職秀を攻撃軍の総指揮官に任じ岩屋城を陥すべく配備し攻撃にかかった。当時花房助兵衛職秀が妙福寺を「寺山」より現在地に移したのはおそらく戦略上の都合によるものであった事と考えられる。
 妙福寺は花房家尼子氏との縁故は深く本尊の釈迦多宝四菩薩、鬼子母十羅刹は花房助兵衛職秀が、祖師像は尼子勝久の寄進となっております。
 正上大明王御真筆の曼荼羅は什宝として、又境内には「百日紅」の老木も昭和四十二年に天然記念物として久米町教育委員会から指定を受けています。西側には明治初期に開校された「岩谷校」跡も寺から山には土塁てのくぼり等(天正十二年岩屋城攻撃にそなえ造られた)跡も保存されている。
 玄関前に数百年を経た老木があったが松喰虫のため平成二年枯死してしまう。

『妙福寺由緒』より

【戻る】

資料
【地図を表示する】
 

私見
ものすごい藪です!土塁が見えません・・ 北へ延びる尾根上にも土塁が残る  荒神ノ上陣城に続いて、西隣の支尾根先端にある妙福寺ノ上陣城を攻めてみます。荒神ノ上陣城の竪堀が麓まで伸び、その延長に土塁が続き、その向うの尾根が妙福寺ノ上陣城です。「美作国の山城」に描かれた縄張り図を見ますと土塁がよく残る見応えのある城なのですが、実際は藪がひどくて大変・・。東側斜面の竪堀はまだなんとか見えるくらいで、藪をかき分けて登るのもひと苦労です。小さな平場があるのを見て、さらに上を目指そうと思うのですがまだまだ藪が続きます。続けて登ってもいいのですが、一旦麓に降りて西側に回り込めば元果樹園へあがる道路が使えます。尾根上は改変もありますが、ものすごい藪の中には土塁がよく残っていますね。そこから北へと続く道にもわずかですが土塁が残ります。
 城跡めぐりにはややつらいところですが、包囲網を率いた花房助兵衛が拠ったということですから役割としては重要な陣城だったんでしょうねぇ。妙福寺の由緒文にあるような『妙福寺を「寺山」より現在地に移したのはおそらく戦略上の都合によるものであった事と考えられる。』というのをよく考えてみたいものです。
【戻る】