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岡山城跡


登城日:(2000.01.09→2011.11.05→2012.06.16→2016.02.15)
所在地: 岡山市北区丸の内二丁目、烏城公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
後楽園側からの岡山城天守 絶妙なバランスを持つ天守  備前の国邑久から起った宇喜多直家が、岡山の地・石山の城にいた金光宗高を亡ぼして城郭を拡張し入城したのは天正元年(1573)の秋であった。それまでは金川の松田氏に属する小城に過ぎなかったが、直家はこの城を本拠として城下町の経営に着手し、岡山の繁栄の基礎をつくった。
 その子八郎秀家は、豊臣秀吉の処遇を受け、直家の遺領である備前、美作のほかに備中の内の高梁川以東をも加え、五十七万石をこえる大領主となった。
 ここにおいて秀吉の意見に従い、石山の東に本丸を移して城郭の拡張整備を行い、慶長二年(1597)、三層六階の天守閣が落成するにおよんで、城普請は一段落した。これがこの地に豪壮きわまりない石垣と内堀を残す岡山城本丸であって、さらに西南の平地に二の丸、三の丸などが城域を画し、近世城下町の骨格ができあがったのである。
 宇喜多秀家は、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに西軍の総大将となって出陣、一敗地に塗れて八丈島へ流された。その後二年余りで急死し、後継者がいなかったのでこの家は断絶した。そのあと姫路城主池田輝政の子、池田忠継に備前一国を与えられ岡山城に入る。以後池田氏三十一万五千石の時代が続き明治維新に及んだ。

 岡山城天守台
 岡山城の天守閣は慶長二年(1597)に竣工、その外観から烏城または金烏城とも呼ばれ、戦災前は国宝に指定されていました。
 昭和20年(1945)6月29日未明の岡山大空襲により市街地は焼け野原となり、天守閣は焼失、天守台の石垣も焼けて赤く変色してしまいました。
 その後、天守閣は再建され、石垣も一部が修復されたものの、今も焼けて変色したままであり、空襲の激しさを伝えています。

 月見櫓
特別公開中の月見櫓 月見櫓の二階から  月見櫓は、岡山城本丸を構成する一二三の段の二段目に当たる中の段の北西角を固める隅櫓で、池田忠雄が岡山城主であったときの城郭整備に伴い、元和年間から寛永年間前半の時期(1620年代)の建築と判断されています。構造は、一部地下付きの塗籠造り本瓦葺き二階建てで、城外(北西)側から眺めると二層の望楼型の様相を示し、城内(南東)側から眺めると三層の層塔型の景観を呈しています。規模は、地階と一階が桁行(東西)三十二尺三寸(9.75メートル)・梁間(南北)二十六尺二寸(7.94メートル)・二階が方形で桁行・梁間とも十六尺五寸九分(5.03メートル)、棟高四十五尺四寸(13.67メートル)です。
 地階は、一階床下の貯蔵場所であり、一階の床板が引上げ式の戸造りとなっていて、有事の際に一階へ通じる作りとなっています。一階は、西面に石落とし付きの唐破風造りの出格子窓、北面に石落とし付きの片流屋敷の格子窓を設けて城外側への臨戦の備えをなし、南面西寄りに入口を設けています。二階は、西面の初層屋根の妻部に千鳥破風の格子窓、西壁に引き違い窓、北面の踊場北窓に唐破風造りの武者窓、北壁に引き違い窓を設けて、一階同様に城外側への備えを厳しくしています。
 その一方で、二階の城内側の東面と南面には雨戸を立ての手摺付きの縁がめぐり、内側に腰高明り障子を立てており、二階のたたずまいは、城内側が日常生活仕様となっていて、平時にも月見を始めとした眺望と小宴を催すのに格好の構造となっています。

 宇喜多秀家が築いた中の段の西辺石垣
露出展示中の宇喜多秀家期の石垣  【南側に石垣がないのは】
 もともと、石垣は南に続いていましたが、城を改造する時に石を抜かれたからです。石は新たに築かれた外側で現役の石垣に転用されたと考えられます。また、北側が石垣の上に建っていた長屋状の櫓(多聞櫓)を中の段内部の建物として残したからでしょう。
 【石垣の特長は】
 石垣の本来の高さは10メートルほどあり、下の段から積まれています。頂部は壊れていますが上方の高さ約3メートル分を露出展示しています。石は主に花崗岩で、加工を施さない自然石を横向きに積んでいます。石垣の傾斜は58度で、城の石垣としてはずいぶんと緩やかです。また、上方ほど傾斜が急となる「反り」の技法をとらず直線に立ち上がり、古い時期の特徴を持っています。
 【ここから金箔瓦が出土】
 石垣を埋め込んだ造成土からは、金箔をおした桐の文様の瓦が出土しました。平成8年のことです。桐は宇喜多秀家が豊臣秀吉が家紋として与えられたものです。この石垣の上、つまり秀家期の中の段には、こうした瓦を葺いた華麗な建物があったのです。

 地中に埋もれていた石垣
鋭利な隅を持つ石垣  【なぜ、ここに石垣が】
 江戸時代の初めに城を改造する時に、この石垣を埋め込んで「中の段」を北に大きく広げたからです。平成五年度の発掘調査で見つかりました。石垣は展示施設の壁を越えて続き、本来の裾は床下に埋もれています。拡張後の中の段には「表書院」の御殿が建てられ、この場所の真上は台所となりました。
 【いつ築かれたか】
 今から400年あまり前、宇喜多秀家が岡山城を築いた時の石垣です。自然の石をほとんど加工せずに用いるのが特徴で、30年ほど後に積まれた中の段北側の現役の石垣が新式の割り石を使っているのと異なります。
 【角が尖った珍しい石垣】
 石垣の辺と辺がなす角度は70度です。これほど角が尖った石垣は全国的にみて非常に珍しいものです。石垣の東は当時の「下の段」から「中の段」に上がる道筋となり、廊下門の前身となる城門がありました。南西からの石垣は裏に埋め込まれている自然の丘の形に沿って延びているのに対し、門前をきっちり南北方向に切り通したため、特異な石垣の隅が生じたのでしょう。

 岡山城石山門跡
石山門跡の枡形  石山門は、廃城となった富山城(矢坂山)の大手門を移築したものと伝えられ、西の丸の石垣と南側の方形の石垣の上に渡り櫓を構えた櫓門で、石垣の間が通路になっていました。
 岡山城廃城の後ものこり、天守閣と共に国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945)6月29日未明の岡山大空襲により焼失してしまいました。石垣にのこる赤茶けた焼け跡が空襲の激しさを今に伝えています。
 岡山城二の丸(西の丸)跡
空襲の焼け跡が残る石垣  丸の内地区に見られる古い石垣は、1590(天正十八)年の宇喜多秀家の築城に始まり、寛永年間前半(1630年頃)の池田忠雄の城普請まで、四代の城主によって完成を見た岡山城の城郭の跡です。
 この地は武家の郭から町人の城下町の三の曲輪へ、内堀を渡って通じる要衝をなしていました。
 この説明板の後の石垣は二の丸の北西部を固めた西の丸の北側にあたります。
 石垣の西側に重層の北西隅櫓を構え、東側に渡櫓門造りの北門を備えていました。

 国指定重要文化財 岡山城西丸西手櫓
岡山城西丸西手櫓  西丸西手櫓は、岡山城本丸の外周を固める帯曲輪である二の丸内屋敷の西の郭西端を守る隅櫓で、城主の池田忠継が幼少のため兄の池田利隆が統治を代行していた慶長八年(1602)頃に建築されたといわれています。構造は、塗籠造り本瓦葺二階建てで、1・2階とも桁行(南北)五間(10.36メートル)、梁間(東西)三間半(7.27メートル)、棟高三五尺(10.6メートル)の規模です。
 一階は、城外側(西)壁面には両脇に上部に鉄砲狭間(銃眼)のある石落し(俯射装置)と二箇所の塗り格子窓の防御設備を備え、屋根を軒唐破風で飾り、南北両面に各一箇の入口、東面に二つの明り取りの塗り格子小窓を設け、内部が板張床に柱の立つ一部屋造りで、武器や兵糧の保管場所の造作となってます。
 二階は、南・西・北の三面に片流屋敷付き塗り出格子窓を設けて城外側への防禦の対応を図っていますが、東面(城内側)には雨戸立ての窓を開いており、内部が床の間付きの畳敷き広間を東側に設けて、日常生活用の仕様となってます。
 この櫓のたたずまいは、一階二階とも城外に臨む壁面には実践用防禦設備を設けて、臨戦機能を高めており、総じて実戦本意の形状を示すといえます。二階の広間と東面の窓は、この実戦性に沿ぐわず、池田光政が西の郭西部を隠居所とした時に、その一部として使用できるように改修されたものと推測されます。

『岡山城跡案内板』より

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資料
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◆歴代城主一覧
天正元年 (1573)〜(1582) 宇喜多直家
天正十年 (1582)〜(1600) 宇喜多秀家
慶長五年 (1600)〜(1601) 小早川秀秋
慶長八年 (1603)〜(1615) 池田 忠継
元和元年 (1615)〜(1632) 池田 忠雄
寛永九年 (1632)〜(1672) 池田 光政
寛文十二年 (1672)〜(1714) 池田 綱政
正徳四年 (1714)〜(1752) 池田 継政
宝暦二年 (1752)〜(1764) 池田 宗政
明和元年 (1764)〜(1794) 池田 治政
天保四年 (1833)〜(1842) 池田 斉敏
天保十三年 (1842)〜(1863) 池田 慶政
文久三年 (1863)〜(1868) 池田 茂政
明治元年 (1868)〜(1869) 池田 章政

私見

見やすくなった西手櫓  仕事で岡山に来たついでに岡山城に寄ってみました。目当ては2015年に隣接するビルが解体され、その姿がとても見やすくなった西手櫓を拝むためです。言ってみると以前とは完全に別モノとなった景色に感動します。かつてビルが建っていた場所はコインパーキングとなっていますので、うまく西手櫓が見やすい状態で土地が有効利用されているなと感じました。改めて確認してみますと、不動産屋(株式会社ウェーブハウス)さんがここを手掛けられたようで、そのサイトでは「空間そのものをリノベーションする」と書かれていました。最初に感じた印象は間違ってなかったのですね。意図してこのように設計をされたんだと知ると、なおのこと嬉しくなってきます。今までは気づけなかった大きな石が組み込まれた石垣の威容も際立っているようです。
 あ、そうそう・・。後楽園内で見つかった御舟入跡もそのまま露出展示をされ、見学できるように保全してくださっていますね。岡山城は本丸内にも宇喜多時代の石垣を見せるような工夫がされていたり、見学者にはうれしい配慮に気づかされるお城ですね。

「御後楽地割御絵図」正徳2年(1712)に加筆されたもの 御成門跡あたりの土手  岡山城本丸から北方の月見橋を渡ったところにあったとされる御舟入跡の現地説明会がありましたので行ってきました。岡山藩藩主が城と後楽園を舟で往来する際に使用した船着き場、御舟入は、後楽園が築かれた直後からその存在が絵図によって確認されています。現地説明会会場に並べて展示されている様々な絵図から、後楽園や御舟入の形状の変遷を見て取ることができ、改めて絵図から得られる情報の多さに再確認させられますね。昨年ここを通りかかった時は完全に埋め戻されていましたが、平成24年に改めて発掘調査された結果、その全貌が明らかとなったというわけです。
 南側にある後楽園の入場ゲートをくぐると、通路を通って左方面へ。露出した土面のあちこちにトレンチの跡が生々しい凹凸が現説らしい雰囲気を醸し出しています。絵図では御舟入から上がってきたところに御成御門があったとされるのですが、残念ながら今回の調査では見つかっていませんでした。明治期に盛られた高い土手を掘り下げれば残っているのかもしれませんが、今回そこまではできなかったようです。しかしその先の通路には、山土と石灰を混ぜた三和土(たたき)による舗装が見つかっており、後楽園では初めてとなります。
出土された近世の遺物  そしてその先には発掘により出土した遺物が展示されていました。一見して周りの雰囲気と似つかわしくないものが並んでいるのがわかります。お茶やジュース、薬などの空きビンがほとんど・・・。それら出土した遺物の年代は大正以後のものばかりです。係の方は「遺物と認めるかどうか」とおっしゃってるくらいでした(笑)。空き瓶の説明にメーカー名まで付記されていたのには笑えました。かつてないくらい詳しい情報です。あとで知りましたが、やはり江戸期のものは見つかっていませんでした。御舟入が使われていた頃は、お殿様の通路であるこの辺りは丁寧に保持されていたのであろうから間違ってもゴミなど落とされなかったのだろうと。なるほど・・・それだけこの御舟入りの発見が貴重なものであることはわかりますが、一方で遺物が出ないと年代観を図れないのが悔しいところでしょうね。また大正以後どれだけゴミが捨てられたんだよ、ととても残念な気持ちにさせてくれます。

発掘された御舟入跡 発掘された御舟入跡  御舟入跡は、約3.5メートルを掘り下げられた中にありました。裾が広がった格好の13段の雁木とその下に護岸石垣が出ています。下段は三方から乗り降りできるような形状が新鮮ですね。ここを上がっていくと段々があり、御成御門(南御門)をくぐって後楽園へと入っていくのですが、上部についてはよくわかっていません。かなり掘っていると思うのですが、あれでもまだ明治に積まれた土手が阻むんですかねぇ。また雁木の脇には通路としての土手が見つかっています。改めて思いますが、よくぞこんなすごいものが埋まっていたものですね。是非とも整備していただき、後楽園の新たな見どころにしていただきたいと思います。
後楽園の美しい景色 後楽園側からの岡山城天守  一通り現説を楽しんだ(厳密には説明会終了後だったのでほぼ独占状態も良かった)後は、一応後楽園も楽しんでおきます。よく考えたらここ初めて入ったのでした(笑)。お城好きな人でこちらまで見に来る人はどれくらいの割合なのでしょうね。でもここは天守を旭川越しに東側から眺められるスポットではありますので、午前中に見に来るのはいいかもしれません。雨模様のこの日は写真の通りですが、天候次第ではなかなか見応えがあるかもしれませんよ。

外側から見た西手櫓  現地説明会を堪能したあとは、西丸西手櫓を見に行きます。前回は未確認でしたが、実は堂々と敷地内に入って見学出来たのですね。ということで、元小学校であった西の丸の西隅に鎮座している現存櫓の姿に感動しながらも、なんとも勿体ないくらい寂しい状態が少々気になったりもします。内側(東側)から見た同櫓は、さすが隠居所といった穏やかな佇まいですね。それでは反対側の外側からも見てみましょう。ちょうどお昼時ですので、禁酒会館1Fでカレーをいただきながら見上げる石落としと塗り格子窓がステキです。天守内のスイーツと共に岡山城めぐりの定番となればいいですね。

移築された京橋御門 背の高いこの門は馬上のまま通れるように、とか  近世城郭ならばたいていある岡山城の移築門について調べてみました。するとありました。岡山城の脇を流れる旭川を下った児島湾の向かいに位置する南区小串の集落内に移築されていました。遠目から見てもすぐそれとわかるほどの格式の違いと言いますか、立派すぎる門となっています。念のために地元の方にも確認しましたので間違いありません。かつての京橋御門です。ここに案内板が設置されていればもっと良かったのですが、個人所有となっているものですので、ありがたく写真撮影させていただきます。
かつての二十日堀跡である柳川筋  続いて岡山城関連の史跡を紹介しておきます。岡山城にはかつて五重の堀が作られていたことはご承知のことと思いますが、その堀の様子は古い絵図と現在の地図とを見比べてみると今もその存在を感じとることができるようになっています。五重堀の外堀跡は、現在の柳川筋として市内中心部の交通の要として利用されていますね。郵便局前にその二十日堀の石碑が設置されていますが、延長約2.5キロメートルのこの堀は慶長六年(1601)に小早川秀秋によって完成されたことは知られているのでしょうか。武将としてはあまりいいイメージがないと思われる秀秋さんですが、岡山にとっては現在につながる城下町形成に一役買った方として功績を残しているのです。
 小早川秀秋に興味がある方は、番町2丁目にある瑞雲寺を訪れてみてください。秀秋の菩提寺である同寺には、本堂に立派すぎるお墓(半分地下に埋もれた格好となっているのはびっくり!)と、秀秋の木像が設置されています。ご住職から熱いお話をお伺いできれば、秀秋さんのイメージもかなり違ってくるかもしれませんよ。

不明門 岡山城天守  烏城という別名をもつ岡山城。いろんな城の本には正面からの写真が多かったので縄張りまでは考えたことなかったのですが、いってみて初めてわかるってのはいいですね。旭川がうまく城域の北から東へと取り巻く形をとり、南、西面には深く、幅広の堀が防備を固めています。天守閣内で買った『あいらぶ城下町』(^^;によると、宇喜多秀家が大規模な工事を敢行し、一大水郷都市へと形成させていったようです。
旭川、内堀の次に石垣に目を転じてみます。まず内下馬門跡付近にある巨石。ひとつだけでも数十トン以上は優に有るだろう巨石は、付近の犬島から採石されたそうです。そして天守をはじめとする本丸跡をぐるりととりまく石垣。旭川沿いの天守閣下あたりの石垣は、不揃いな大きさの自然石が積まれた野面積みで、宇喜多氏時代のものであることがわかりますし、又、城域西部にある月見櫓辺りの石垣は、四角い人口石が打ち込まれた打ち込みハギであることがわかります。池田氏時代のものであることが明らかです。また、さらにそのまわりにはあちこちで穴が明けられ、ところどころビニールシートで防護されているのが見えます。どうやら今も発掘調査が続いているようです。縦に1メートルほど掘られた穴に対して垂直な石垣が少しずつその全貌を露になっていくのが感じられたのは歴史が実感できて素晴らしいです。

宇喜多秀家と小早川秀秋の石垣 石垣の補強用巻き石垣か?  岡山城を改めて”歩いて”みようと、久々に再訪してきました。いつもだったら内堀そばの有料駐車場に車を置いて目安橋を渡るのですが、実はこの内堀一帯が岡山城の本丸だったのです。本丸の中に「下の段」「中の段」「上の段」とそれぞれ役割があり、区分けがされてはいるものの城のほんの一部でしかありません。ということで改めてその広大な城域を体感せねば、と思ったわけです。
 幸い岡山城周辺には、レンタサイクルが整備され、数か所ある拠点で乗り捨てが可能になっているという大変便利なシステムが敷かれているのも手伝って、城域やかつての城下町を散策するのには苦労しません。まずは城の西方に南北に延びる堀跡を探ってみます。かつては5重の堀が作られた岡山城ですが今は内堀を残すのみとなっています。しかし蜷筋が小早川秀秋が突貫工事で築いた「二十日堀」であったり、天満屋のすぐ西側の商店街の筋が中堀跡であることはあまり知られていません。さらに内側に目を向けてみます。次は城内でも貴重な現存建造物である、西丸西手櫓です。空襲で焼かれた石垣がよく残る西の丸の西端に位置しています。しかし残念ながら外からはその姿をほとんど確認することができません。ビルやホテルが石垣のすぐそばまで建ち並んでいるためです。んーーーー・・、とっても残念ですねぇ。貴重な現存建造物だというのにその姿をほとんど拝めないというのは大変悔しい思いがします。内側からは可能なようですが、やはり隅櫓は外から眺めてナンボですよねぇ。西丸西手櫓
 あまりグチグチしててもらちがあきません。先を急ぎます。西の丸をぐるっと外側を回り石山門跡の枡形にやってきました。そういえば西の丸の曲線を沿うように外側にも堀がめぐらされていたのでした。地形の起伏からちょっと考えにくい気もしますね。
 さらに先を急ぎます。北へ大回りをし後楽園側から本丸を目指すことにします。御舟入跡を確認する目的もあったのですが、何より旭川越しに月見橋から眺める岡山城天守はとても美しいのです。南側から見た岡山城は平面的でのっぺりした造りに見られあまり好きじゃないのですが、北側から見た天守はステキです。あまりいいお天気で太陽が真上にあると難しいかもしれませんね。
 天守の裏手、廊下門を見ながら左へと歩いていきます。このあたりは野面積みの石垣がよく残っており、宇喜多秀家期のものです。また途中で拡張した様子も見てとることができ、小早川秀秋期のものである説明もあります。孕んでいる石垣の裾部には丸く補強している部分もあり、鳥取城の天球丸で復原しようとしている巻き石垣と近いものを感じます(池田氏繋がりか)。また隅石が波打つような曲線を描きつつも、城内最大の高さを誇る石垣は圧巻ですね。そのままぐるっと南へ廻り込んで鉄門を過ぎると中の段に到着です。ここは以前の発掘調査により見つかった宇喜多期の石垣を露出展示している箇所が2つ、そして書院跡の様子がわかるように整備されています。ちょうど訪れたこの日は月見櫓が特別公開中でしたので、中を覗くことができました。普段は閉じられていますので分りませんでしたが、二階部の望楼が優美さを感じさせてくれますね。しかし外側は石落しや武者隠し、はたまたまわりにある石垣は銃眼を備えており、やはり城の裏手を守る重要な櫓であったことが分ります。
 そして不明門をくぐってようやく城の中心部へ。天守の見た目はやむを得ないとして、ここまで見てきた中で実に多彩な石垣があることは、新鮮な発見でした。また池田氏よりも宇喜多氏を推しているのも興味深かったです。何か所か見落としたものもありますので、また再訪したいと思います。

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